映画感想:『別離』で人の葛藤、苦悩、弱さを知る


Jodaeiye Nader az Simin - Trailer (Starring: Leila Hatami, Kimia Hosseini)


イランという国にどういうイメージがあるだろうか。

石油が主要産業の国? イランは、石油の埋蔵量4位の国家。輸出収入の80%を石油が締める。

宗教が強い国? イランは、宗教上(イスラム教)の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制の国家。

対米感情が強い国? アメリカと長年仲が悪い。直近では、アメリカによりシリア攻撃に対して、ロシア、シリアと結束して対抗する姿勢を示している。

このように、自らが属している多くの先進国とは様子の違う国であるように思える。
日本から距離も遠く、精神的な距離感も他先進国よりも遠い国でもある。

しかし本作を見ることで、イランに対する印象は変わる。
もちろん上に書いたように、石油が主要産業であったり、宗教が強い力を持つ国であることに変わりはないのだが、
作品の中で描かれているイランの人々は自分たちとそう変わりはない。

離婚する人が増えていたり、介護が問題になっていたり、貧富の格差があったり。
何よりも、人間の本質というのは、どんな国/人種/性別/年齢であってもさほど変わりがないことがわかる。
良くも悪くも、普遍的な人の葛藤、苦悩、弱さ、そして醜さを描いているのが本作である。


本作は、2011年、アカデミー外国語映画賞他、数々の賞を受賞している。「別離(Nader and Simin, A Separation)」のタイトルにもあるように、イランの中産階級家庭の夫ナデルと妻シミンの別離、離婚調停のシーンから始まる。しかしそれだけではなく、イランに限らない普遍的な様々な「隔たり」が描かれており、本作を単純な離婚物語ではないヒューマン作品に昇華させている。

1.夫婦の隔たり

ナデルとシミンは「移民をするかしないか」ですれ違っている。
ナデルは「(アルツハイマーの)父親を置いていけないから、国を出ることはできない」と主張し、シミンは「娘のことも考えると、(イランにいるよりも)移民をした方がいい」と主張する。どちらも譲る様子は見られず、話は平行線。話というよりも、双方自分の主張をしているだけで会話がない。

2人とも家族のため(ナデルは父親、シミンは娘)のためだと言いつつ、当の本人の口からそのように語られた様子はない。ナデルの父はアルツハイマーでまともに話すことができないし、娘テルメーは「イラン国外に行きたい」が主張しているようには思えない。火種の話題はイラン他、特定の国の生じる可能性がある話題ではありつつも、その主張内容自体はイラン人特有のものではない。ナデルとシミンは自分が「こうあるべき」だと思うことを頑なに主張しているだなのである。

<背景にある現代イランの事情>
■イランにおける離婚率はここ数10年で急増しており、2000年の約5万組から2010年には約15万組に達した。一方で、結婚適齢期を迎えた若者120万人のうち20万人が未婚とされ、離婚率の上昇と婚姻率の低下が、日本と同様に社会問題となっている。頭を悩ました政府は、アフマディーネジャード大統領(2005-現在)の音頭で、結婚資金のローンや集団結婚式など婚活支援対策に乗り出したが、効果のほどは不明である。
■イランでは、結婚する時に、離婚の条件や離婚の場合に支払われる慰謝料の金額なども含め、結婚に関する細かい取り決めがなされ、それが何ページにもわたって、契約書に書き留められる。本作の冒頭タイトル・バックの一番最後に映し出されるのは、そうした結婚契約書の1ページである。

映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より

2.親子関係の隔たり

前述のように、夫婦は家族と対話することなく、それが原因で隔たりができてしまっている。

ナデルの父はアルツハイマー病でまともに話をすることができないが、
とある事故がおきて依頼、全く言葉を発しなくなってしまう。まるでナデルへの抗議かのように。ナデルの父は、そこまで苦労しながら介護されるのを望んでいないのかもしれない(ただし社会通年の壁もあり、施設入りというわけにもいかない)。

娘テルメーは、父母の行動に対して明確なスタンスを述べることはしない。「明らかに快適であろう母の実家ではなく、父のいる自分の家で暮らす」ことを除いては。彼女はその行動を通して、両親への抗議、家族3人で暮らしたいという主張をしている。

そしてナデルとシミンはそれに気づくことはない。自分のことで頭がいっぱいなのだ。

<背景にある現代イランの事情>
■2000年以降、イラン人の平均寿命は70歳まで延び、介護が必要な高齢者が年々増加しているが、イランでは老人介護の施設が非常に少ない。それは、介護は家族の役割であり、施設に入れられた老人は大変不幸であるという社会通念が強いためであるという。
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3.宗教

イランでは、社会に対する宗教の影響が強い。また、宗教を元に普段の自身の行動指針を定めている人もいるし(ラジエー)、コーランに誓っておきながら自身の主張を反転させる人もいる(テルメーの学校の先生ギャーライ)。

コーランに誓えないあまりに苦しむ人もいるし(ラジエー)、それを利用して自身の主張を正当化仕様とする人もいる(ナデル)。

そんな濃淡入り混じる社会における様々な人と人の隔たりが本作では描かれている。

<背景にある現代イランの事情>
イスラムの教えでは、女性は親族以外の男性の前では、髪をスカーフで覆うことが義務付けられている。学校など公共の場では黒などの地味なスカーフを付けることが一般的だが、シミンのように、TPOに合わせてカラフルでおしゃれなスカーフを付ける女性も多い。敬虔なムスリムであるラジエーは外出時には黒いチャードルと呼ばれる半円形の一枚布を身にまとい、全身を覆っている。
■ナデルの父が失禁したことに気づいたラジエーが電話で相談した相手は、イスラム教の聖職者。あとのシーンで、ナデルから慰謝料を受け取ることは罪になるかどうかも問い合わせていることがわかる。
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4.経済的な隔たり(格差)

ナデルの家庭は、夫が銀行員、妻が英語教師、母の実家は「ナデルの保釈金4000万トマン=約360万円」をすぐに払えるぐらいの家庭、と比較的金銭面で余裕のある家庭だ。

一方でラジエーの家庭は、夫が無職で借金取りに追われている状態、そのため妻は妊娠中にもかかわらず遠く離れたナデルの家まで仕事をしにこなければならない、という金銭面で余裕のない家庭だ。

どこの国、社会でも経済格差はあるものだろうが、現代イランに置いてもそういった格差(隔たり)があることがわかる。

<背景にある現代イランの事情>
■100トマンは約9円なので、介護の1ヶ月の賃金30万トマンは約27000円、ナデルの保釈金4000万トマンは約360万円、示談金1500万トマンは約135万円ということになる。イランの通貨単位は、他に、リアル(10リアル=1トマン)がある。なお、首都テヘランでの一般家庭では、例えば、ナデルのような銀行員の1ヶ月の給与は、約60万トマン(約6万円)と言われている。
映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より


上記のような様々な「隔たり」の問題があり、そこから受ける「損」をできるだけ自分が被らないように皆が「嘘」を重ねていく、というのが本作の大筋である。悲しいのが誰もが「悪人」ではないということ。

もちろん自らが追い込まれたときに「嘘」で身を守ろうとするのは決してよい事であるとは言えないが、それが「隔たり」を深く、そして後戻りできなくしていく。そして彼らが引き起こしたものではない「社会問題」がなければ、そうはならなかっただろう。皆「自分は悪くない」という感情があり、内向きになっていく。

2017年、今の時代にこそ見る作品ではないだろうか。各国で「断絶」が問題となっており、2017年は国と国(アメリカとシリア/北朝鮮/ロシア)、そして国内で(もうすぐフランスの国政選挙だが、何がおきてもおかしくない)、断絶が引き起こす現実が問題になっている。

世界全体で、自分を守るための「不寛容」さで覆われ、さらに彼らの状況を悪化させている。損をしたくないという囚人のジレンマが、各側面における「別離」を生んでしまっている。人の葛藤、苦悩、弱さ、そして醜さが生んだ「別離」だと思う。

政治的な話になってしまったが、本作はエンターテインメントとしても十分楽しむことができる。
「誰が嘘をついていて、真実な何のなのか」ということが最後までわからず、鑑賞者はそれを推理することを楽しむことができる。

社会派でありつつもエンタメ。イラン映画は見たことがなかったが、評判にたがわぬ佳作だった。

映画感想:『オデッセイ』を宇宙飛行士になりたい人は見るべきだ


映画「オデッセイ」予告Z


マッド・デイモンは遠く彼方の惑星に取り残されがちである。

インターステラーでは、火星よりはるかに遠い惑星で1人取り残されていた。1人で残された悔しさからか、それとも長年1人だったことで気が狂ってしまったのか、インターステラーでのマッド・デイモンは自分勝手な科学者で、自分1人だけ生き残ろうとした。

本作のマッド・デイモン、宇宙飛行士ワトニーは違う。(事故により)1人で火星に取り残されたが卑屈になることも、脱出したクルーを恨むこともせず、ただがむしゃらに生きようとする。生きようとするエネルギーは、恨みなどのネガティヴなものではなく、「なにくそこの野郎、火星で生きてる俺ってすげー!」というポジティブなものである。

なぜワトニーは生き抜くことができたのか。それを考えることは、宇宙飛行士になる必要条件を考えるに等しいように思える。

まず先述のように彼はポジティブだ。寂しいからなのもあるだろうが、記録用のビデオに軽口を叩き、船長の残していった(センスのない)ディスコミュージックで気分を高めて、厳しい火星生活を進めている。

例えば、ジャガイモを植え「作物を作ったから、俺は火星を植民地にしたことになる。うおー!」と叫ぶ。しかしそこには誰もいない。非常にポジティブな自身に対する鼓舞表現だ。

もう1つの彼が火星で生き抜くことができた理由は「良い意味で、難しいことをあれこれ考えなかった」ことであると思う。

「なぜ自分は、火星でこんなにも苦労して生きなければいけないのか」
「そもそも、帰れる見込みなんてあるのか」
「自分って誰なんだ。意識があるってどんなことなんだ」

そんな答えのないような問いを彼は持たない(持っていたのかもしれないが、表に出ないほど些細なもの)。
彼は「生還」という火星生活における唯一の目的に向かって、淡々と生きるだけだった。
余計なことを考えると、エネルギーは使ってしまうし、どうしてもネガティヴになりがちだ。「そもそもなぜ生きなければいけないのか」という問いを考え始めると、先の見えない火星生活の中ではネガティヴな感情しか生まれてこない。「こんなに苦労して生きる意味なんてない、もういいや」と思ってしまうことだってありえるだろう。「生きる意味」は、宇宙服を着なくてもよくて、明日なにを食べるものがあるかを気にしなくていい地球でじっくり考えればいい。
そんなことをあれこれ考えていると、例え生き残れたとしても、インターステラーのマッド・デイモンになってしまう。

宇宙飛行士であること、生き残る確率が高い宇宙飛行士であるには、「ポジティブであること」と「(無駄なことを)考えないこと」が非常に重要なことではないだろうか。それを本作の主人公ワトニーから学んだ。

最後に、大事なことを忘れていた。

植物のことをよく知っていることも重要だ。食べ物が少ない極限状況では、植物学者が生き残るだろう。食べ物を栽培して増やさなければ、生きて行くことができない。地球で暮らしていると植物学者の存在を意識することはほとんどないのだが、宇宙での存在感は大きい。


果たしてワトニーは生還できるのか、何とか生きている中での事故/危機的な状況もあるが、そもそも絶望的な状況でもある。

そんなサスペンスな状況に冷や汗をかきつつ、しかしワトニーのポジティブな態度に安心感も覚えながら楽しむことができる、アメリカ作品らしいエンターテイメント映画だった。

映画感想:『パッセンジャー』は、舞台設定がいいラブストーリー


映画 『パッセンジャー』 予告

『目覚めたのには、理由がある』

そんな含みのある言い方と、2人の男女が目覚めている宇宙船内の映像。
そして、危機的な状況に対処する彼らの映像が予告編では描かれる。

男女2人の作品であることは予告段階から分かるものの、
インターステラー』のような、絶望的な状況と少しの希望、宇宙映画の映像美、宇宙船のかっこよさ、そんなことを期待していた。


しかし開始30分ほどで分かる2人が目覚めた理由は単純なもので、
予告から期待していたようなスリリングな展開に疑問を持つようになる。

そしてところどころご都合主義な脚本がどうしても気になってしまい、どうも入り込むことができなかった。

最初から最後まで、結局ラブストーリーで、
そういう観点で見るのであれば楽しめる作品であったように思える。


ご都合脚本の最たるものが、豪華宇宙船アヴァロン号の乗務員ガスの存在だ。
2人の中が険悪なタイミングで突然故障により登場し、
そして冬眠ポッドの故障により起きたときには多機能不全の状態で死んでしまう。

「お、おれのIDカードを使え、何にでもアクセスできる…」 パタッ…

チートツールであるのIDカードを渡すために登場し、
2人の邪魔をすることなく去っていくガス。なんと可愛そうな存在。。

そして重大な危機を迎え、オーロラとジム2人で協力し危機を乗り切る。
険悪なムードはどこかに去ってしまったのだろうか、
ガスの死が、オーロラに「宇宙船の中で孤独であること」のつらさを実感させたのだろうか。


ラブストーリーだと思えば違和感はない。
ラブストーリーとは、基本的に「2人の物語」であり、他の登場人物は引き立て役にすぎない。
そしてオーロラはその船旅の記録を残していた。本作がその記録を映像化した美化されたお話だと考えれば、きれいな話でもいいのだろう。


最後に、、自分がその状況におかれたらどうするかを考えてみた。

Q1.目の前にものすごく好みの理想の女性がいたら起こす?
⇒A.起こさない。起こすことはエゴでしかないから。

Q2.じゃあどうやって寂しさを紛らわすの?
⇒A.動物を起こして最後にシーンにあったような世界を作る。

Q3.動物とすごしたとしても、さすがに死ぬまでは長すぎない?
⇒A.おそらく電子書籍的なものはあるであろうから、
長い期間をかけてあわゆる書物を読み思考を深める。
そしてオーロラのように、後に残る文章を残す。仙人になる。

と、今その状況に置かれていないから言えることで、
実際そんなると寂しくなるかもしれないし、絶望的な気持ちになり宇宙に身を投げるかもしれない。

そんな風に「もしこういう状況になったら」と考えさせてくれる初期の設定はいいだけに、惜しい作品だった。

映画感想:『おおかみこどもの雨と雪』は「選択」の話


映画「おおかみこどもの雨と雪」特報1

金曜ロードショーでやっていたので鑑賞。

とても優しく暖かい母親が印象に残る。2人のおおかみこどもの母親花は周囲に頼れない大変な状況の中、子育てをする。

人によっては「ゆるふわへらへらで子育て、そんな甘くないし、うまくいくわけないだろう」という批判もあるようだが、自分の感じたことは違った。

彼女は弱音を吐かない。それは、こども達を守り育てるのは自分しかいないから。ただただ懸命に、自分のためではなくこどものためにその日を生きる。「いつも笑っているな」と言われるシーンがあるが、それはお気楽なのではなく、こどものために自分を守るための笑顔のように見える。

彼女は決して強制しない。それは、こどもたちはいつか自分で選択をしなければならないから。学校に行く行かないは、こどもの選択に任せる。雨が学校に行きたくないのであればそれでよし。雪が同級生を傷つけてしまって学校に行かない時には、学校に行くことを強制しない。同級生の呼びかけに本人が応じて自発的に行くようになるのを待つ。

雨が不登校になっても学校に行かせようとしないのは、説得することを放棄しているのではない。
そもそも「学校に行く行かない」の話の前に、おおかみこどもには「人間として生きるのか、おおかみとして生きるのか」ということを選択しなければならない。ただ、当然おおかみの育て方がわからない花は、こどもの選択に任せるということしかできない。だからこそ強制をしないのだと思う。

ただ、花がこども(雨)の選択に異を唱える場面がある。あれだけ勉強をしていても、頭ではわかっていたとしても、目の前におおかみの世界が現れると戸惑ってしまう。ただ彼女は雨の中の山を歩き回ることで、雨の選択を理解した。「受け入れる」という選択をしたのだ。

本作は親子の成長物語である。

成長とは、選択をすることだと思う。

自分が親になったらまた観たい。たぶん、全然違う感想を抱くのだろう。

映画感想:『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は最高にロック


"Angry Inch" - Hedwig and the Angry Inch (2001)

ロックを語るということがナンセンスなのかもしれないが、この映画については語らざるを得ない。

元々舞台だったのを映画化したというもので、そのせいか、映像に躍動感がある。画面を通して見ているのだが、目の前で演奏されているかのようで、ライブDVDの映像よりもよっぽどライブ感のある映像。

トーリー自体には大きな起伏があるわけではなく、「彼女の生き様と音楽」それだけの作品である。
だから、ストーリーを楽しみたいという人には、この作品は向かない。

では何を楽しむ、感じる映画なのかというと、「愛」に関する彼女の魂の叫びを音楽から感じる映画である。

彼女は幼少期から愛とは何かを考え、愛を求め続けている。東西分断されている時期のドイツ(東ドイツ)に生まれ(国の分断)、両親は離婚し(家族の分断)、自らは男性でも女性でもない(性の分断)。男性と結婚しアメリカに行くのだが、相手は出て行き、そこでまた何かの分断、すなわち愛の分断に悩まされる。

そんな彼女の厳しい現実からの逃げ道、そして生きることそのものになったのが「音楽」でる。
幼少期から小さい部屋のベッドの上、オーブンの中で音楽に触れ続け、そして自分の感情を音楽に乗せて吐き出すようになる。

その最たる楽曲が、映画の中盤で歌われる『The Origin of Love』である。
※↓を歌っているは、最近までブロードウェイで上映していた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の舞台でヘドウィグを演じていたニール・パトリック・ハリス。彼はその舞台で、2014年にトニー賞を受賞した。


Hedwig & The Angry Inch | Neil Patrick Harris - The Origin of Love | Official Audio

So we wrapped our arms around each other,
Trying to shove ourselves back together.
We were making love,
Making love.
It was a cold dark evening,
Such a long time ago,
When by the mighty hand of Jove,
It was the sad story
How we became
Lonely two-legged creatures,
It's the story of
The origin of love.

2つ、あるいは3つに分かれていたものをは、元々1つだった。
ただ神々の放った稲妻によってそれは別れ、別々のものになった。
ただ分かれたもの同士、一緒になることができる。それが「愛」。


彼女(いや彼なのか)は、最後に出てくるライブでは、もはや変装をしない。
男性の姿(ヘッドウィッグをつけず)で、上半身裸でのライブ。
ヘドウィグは、「性別」という概念を超え、最高のパフォーマンスを発揮する。

本作は各国でキャストを変えて舞台が上演されている。
普遍的な作品であり、今後も時代を超えて鑑賞される作品になるのだろうと思う。

映画感想:『ボーダーライン』でメキシコの現実を知る

ボーダーライン(字幕版)

2016年北米公開の『メッセージ』がアカデミー賞ノミネート、今年は『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー 2049』が公開されるドゥニ・ヴィルヌーヴの監督作。

メキシコの麻薬戦争を扱っており、翻弄されるFBI女性捜査官の視点を中心に作成されている。


鑑賞後すぐには「緊迫感はあるが、特段ストーリーに大きな起伏もないし結局何だったのかよく分からない。暗く落ち込む作品。」というぐらいの印象だったが、鑑賞後1日経て本作に対する印象が徐々に変わってきた。
その感情は主役であるFBI捜査官ケイト(エミリー・ブラント)の感情そのものなんだと気がついた。

理由も知らされずメキシコの麻薬戦争の担当となり、メキシコに連れて行かれ、簡単に人が殺され、そして自分たち側だと思っていた人に脅され…

「見ていればいい」

そう誰かが彼女に言ったが、それは観客に向けられた言葉でもあるのだろう。

考えても答えなど出ない。
「メキシコの麻薬戦争はどうしたら解決することができるのか」「自分には何ができるのか」
解決策は(今は)ないし、自分にできることもない。

ただただケイトに近い立場として「現実」を感じ無力感を感じることしかできない。
しかし、誰しもそう感じることしかできないし、製作者側が意図した体験も同様のことであると思う。


本作を観て、メキシコの女性市長の話を思い出した。複数回の襲撃を受け、そのうちの1回では夫を殺害され、自らも内蔵を損傷し、この事件以降から人工肛門を付けて生活する事となった方だ。改めて彼女のことを調べてみると、市長を引退した後、娘が誘拐されたため自らの身を差し出し、そして殺害された。

言葉もない辛い現実。

それがメキシコの麻薬戦争の現実である。


またもう一つの語るべき話として、息子の試合を見に行くと約束していながら殺されてしまったメキシコ人の警官がいた。

彼は殺される前に「俺には息子がいる」と話す。

観ている人の中にはこう思う人もいるだろう。
「だったら汚職をするような危険を冒さずに、息子のためにちゃんと仕事をするべきではないか」

綺麗ごとはそうだ。ただその土地では綺麗ごとは通用しない。
彼は、そうせざるを得ない状況に追い込まれているということも容易に想像がつく。


底なしの深い闇。それをこの映画から感じた。

映画感想:『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とファイトクラブの共通点


Birdman (2014) Official Trailer #2 (HD) Emma Stone, Edward Norton

過去の栄光(映画『バードマン』出演によるスターダム)に縛られ続け、再起をかけてブロードウェイでの舞台に挑む俳優の話。

副題の「The Unexpected Virtue of Ignorance(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」がこの映画を要約している。無知であるが故、本気すぎるが故に、トラブルばかり起きるが、マイケル・キートン演じるリーガンの強迫観念とも言える再起への渇望が、奇跡を起こす。

その強迫観念が現れているのが、劇中で彼が「超能力(ものをさわらずに動かす)やバードマンの声」だ。それらのシーンを見て『ファイトクラブ』を思い出す。『ファイトクラブ』の主人公「僕」は、強さを渇望している。そして実際に強いのだが、その強さは「僕」の幻想の中の別の人物ブラット・ピット演じるタイラー・ダーデンによって表現される。タイラーは「僕」よりも強く、タイラーに追いつけ追い越せで強くなっていくのが『ファイトクラブ』である。本作も同様である。リーガンは何でもできる自分=超能力を使える自分=演技がうまい自分、が幻想の中で出てきている。宙に浮き、花を動かし、空を飛ぶ。しかし彼は幻想を否定しようとする。それは単純に存在の否定をするのではなく、幻想が実力なのではなく、自分は幻想を超越する強さを持とうという意志という観点での否定だ。

本作に出演しているエドワード・ノートンは、『ファイトクラブ』の「僕」だ。

そんな彼の再起への渇望が奇跡を起こした。
そして彼は幻想=バードマンの存在を全否定し、別れを告げる。リーガンがバードマンを超えた瞬間である。


本作はアカデミー作品賞を受賞している。なぜそこまで評価されたのか。それは、本作のストーリーが映画人の心をつかむものであったからだろうと思う。

著名であればあるほど、過去に賞賛を受けた作品が存在する。そして少なからず、その後に賞賛を受けた作品の幻影に苦しむことがあったはずだ。そんな自らの経験がリーガン、あるいは主演のマイケル・キートンに重なるのだろう。映画人に限らず、栄枯盛衰、人生の波を経験している人であれば、共感する内容だった。

そして手法としての本作は、現代の映画業界への批判的な視点に満ちている。最初と最後を除いてカットのない映像構成になっているが、その手法自体は特段難しいものではない。ではなぜあえてそのような映像手法を採用したのか。

それは「演劇」と関連する。演劇は「編集」をすることができない。カットもない。観客の目の前で演じるために、「隠す」「変える」ことができない。だからこそ、エドワー・ノートン演じるマイクが舞台で欲情してもやり直すこともできないし、彼の出演シーンをカットすることもできない。そんな舞台の「リアルタイム」な緊張感を、ノーカットの映像によって表現しており、昨今の「編集」によってコントロールしてしまう映画をアイロニックな視点で表現している。

※イニャリトゥ監督は、本物を好み撮影する。本作の次に撮影した『レヴェナント』においては、過酷な撮影を断行した。キャストは生肉を食べ、全て自然光での撮影だったという。

ノーカットの緊張感をより拡大させるのが、ドラムだけのBGMである。リーガンの心情を表すかのようなドラムの音が、連続する現実の空気を研ぎ澄ませる。

映画の中の映画のような作品でありつつも、映画への愛と批判に満ちた濃厚な映画だった。