映画感想:『イミテーション・ゲーム』はマイノリティのスポットライト


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

メディアとは本来「媒体」のことである。物事と人をつなげる役割を果たす。

ただメディアには、他の側面もある。「光をあてる」ということである。

この風刺画を一度は見たことがある人は多いだろう。

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全体における一部のみに光をあてることへの批判、それを風刺したものである。時に意図的に一部のみが伝えられ、事実と反する誤解を与えてしまう、あるいは間違った理解を意図的にさせることができるというメディアの負の側面である。

一方でアラン・チューリングのような不遇の人に光をあてるのもメディアの一つの側面だ。

そう、本作で取り上げられているアラン・チューリングは不遇の人だ。
暗号解読で大きな成果をあげ第二次世界大戦終結に貢献したものの、その暗号解読が英国の機密事項だったため、彼はその行為によって賞賛されることはなかった。また当時は同性愛が認められておらず、同性愛者であった彼は有罪となり、最終的に自殺してしまう。

死後、英国では徐々に情報公開がなされ、2012年にはエリザベス女王の名のもと、恩赦が与えられた。そして2014年、本映画が公開され、世界中の人が彼の功績/人生を知ることになる。


映画というメディアの「光をあてる」という役割、それが機能するためには、そうしようとする監督や脚本家が必要だ。

本作に関しては、脚本家のグレアム・ムーアが発案だ。彼がアラン・チューリングの伝記を読み、脚本を書き上げた。なぜそうしようと思ったのか。その理由を、作中のアラン・チューリングの元婚約者ジョーン・クラークのセリフ、そしてグレアム・ムーアのアカデミー賞スピーチから理解することができる。

一つ目、アラン・チューリングが落ち込むシーンでジョーンがこう声をかける。

あなたが普通じゃないから、世界はこんなに素晴らしい

そしてグレアム・ムーアのスピーチ

When I was 16 years old, I tried to kill myself, because I felt weird and I felt different and I felt like I did not belong. And now I am standing here.
So I would like for this moment to be for that kid out there who feels like she’s weird or she’s different or she doesn’t fit in anywhere. Yes, you do. You do. Stay weird, stay different. And when it’s your turn to stand on this stage, pass the message along.

私は16歳の頃、自殺を図りました。それは自分があまりにも変わっていて、周りと違い、居場所がないと感じていたからです。でも、今私はここに立っています。私はこの場を、自分は変わっていて、他の人と違っている、だから居場所がない、そう感じている子供たちのために捧げたい。あなたにはもちろん居場所があります。そのままで、変わったままで、違うままでいてほしい。(私のように)人生の素晴らしいステージに立つときが必ずきます。そしてそのとき、あなたがこのステージに立った時、どうか次にこのメッセージを繋げてください。


これほど、マイノリティに力を与える言葉があるだろうか。
誰しもが孤独を抱えている。自分には居場所がないんじゃないかと感じることがある。そんな不安を払拭してくれるような、マイノリティを肯定してくれる名作だった。

映画感想:『そして父になる』の福山雅治の演技は素晴らしい


映画『そして父になる』予告編

福山雅治の演技へのアンチが多いようなので、それに関しての個人的な感想を。

本作での福山雅治の演技は良かったように思う。
「演技うまい」ということではない。キムタクと同様に、彼もまた何を演じても「福山雅治が演じている」ことがイメージとして先行してくる。

その「福山雅治らしさ」が、エリートビジネスマン野々宮良太のイメージと合致していた。

野々宮は、エリートビジネスマンを一般化したような人物だ。

一流の建築界社につとめる建築家であり、都心のタワーマンションに住んでいる。優秀であるが故に大きな仕事を断続的に任されており、休みの日も仕事、夜家に帰ってからも仕事とワーカホリックな状態だ。一方で息子との時間を全く割いていないわけではなく、仕事と仕事の合間に受験の面接に行ったりと最低限「父親」であろうとしている。

都会のエリートの「型」にはまったような人物で、彼もそんな自分を良しとしている。

そんな「型」にはまったエリート感、ある種の硬さが、福山雅治の「型」と合致している。

例えば、今まで違う家庭(群馬の電気屋で自由)で育った子どもに対して、「これがルールだ」なんて言っちゃうあたりがエリートビジネスマンの人情の希薄さを揶揄しており、それが福山雅治の「硬さ」と合致してとても良い演技だと感じる。


一方のリリー・フランキー。彼の演技というか、本人の元々持った性質(ゆるーーい大人)が、群馬県のどうしようもない、だけど愛情深い家庭の父親の人物像とうまくシンクロしている。


子を持つ人であれば何かしら考えるところがあるテーマ、そして登場人物像に合致するキャスト。是枝監督の特徴とも言える音楽の少ない静かな作品の雰囲気。テーマとキャスト、そして監督の色。とてもストレートで爽やかだからこそ、取り上げているテーマを深刻ではないが真剣に考えられる作品だった。

映画感想:『オクジャ』と北海道の猟師から考える食肉


この子は、私の大切な家族。『オクジャ/okja』家族編 (30秒)


韓国出身ポン・ジュノ監督が各映画会社に企画を持ち込み、多くは断られ、NETFLIXのみが賛同。予算50億ドル、内容に関してNetflixは口を出さなかったもので、それゆえに自由に作られた作品になっている。

確かにショッキングな内容で、アメリカの映画会社が断ったというのも頷ける。食品業界からの反発は必須であり、利害関係を考えた結果リスクが大きすぎるのだろう。

本作を飾らない一言で言えば「韓国版トトロが実は食用の家畜で、その是非を様々な立場の人の視点を通して見る作品」である。


オクジャが預けられた家の子どもであるミジャから考えればオクジャは「親友」である。物心がないころからずっと一緒であり「家族の一員」であるとも言えるだろう。オクジャが食用に作られた動物であろうがなんであろうが関係がない。

アメリカの大企業未ランド社CEOのルーシーは、オクジャプロジェクトを成功させることは「会社の成功=自己実現」であると考えている。

ルーシーの姉ナンシーはさらに合理的。オクジャを金銭的価値でしか評価しない。お金を払おうがオクジャを手放さなかったルーシーに対して、ナンシーはお金さえ払えばオクジャを渡してもよいという考え方をしている。

動物愛護団体ALFリーダーのジェイもまた、オクジャを彼らの理念を実現するための「手段」としか見ていない。名目上は彼らは「動物愛護団体」なのでオクジャとその家族であるミジャを大事に扱うのだが、何かずれている。彼女らを大事にすることが目的というよりは、彼らの理念を実現するために欠かせないために大事に扱っているという印象を受けるのだ。

そして食肉工場の職員。彼らは、オクジャを「モノ」としか見ていない。それ以上でもそれ以下でもない。

皆それぞれの立場で違う考え方を持ってオクジャに接する。
オクジャとミジャにとっては、たまったものではないだろう。

ただ、彼らの姿勢を全否定するわけではない。
自分も生きる糧として肉を食しているわけで「動物が可哀想だから」と肉を食べることをやめることはできない。

肉をやめることはできない。それならそれで、その裏側にどういう思惑の人がいて、自分たちのところに「肉」が届くのか、それを都度考えるきっかけになるのではなかろうか。

少し前のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で、北海道の猟師の特集をしていた。

久保俊治(2017年4月17日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

彼は動物を後ろから狙わない。また1発でしとめるように頭を狙う。なぜなら無駄に動物を苦しめてしまうから。自分が生きるために、最大限「動物を尊重する姿勢」を持ち、猟を行っていた。

鉄砲を撃って野生の動物を取ることがかわいそうだ、と批判されることもある。しかし、昼食にとれたての鹿肉を食べながら、久保は語った。「そういう人は、どんな肉も食べないのだろうか。今はと殺が分業化され、一番嫌なところは自分がタッチしなくてもいいだけではないか。私は、熊も、鹿も、鴨(かも)を食べる時だって、ちょっと前まで生きてたって意識は常に持っている。」

美味しい肉を作るために遺伝子操作を行うことは、動物を尊重する姿勢を持っている行為だと言えるだろうか。否、言えないだろう。

「いただく」という行為に対しての姿勢を考え直させてくれる。そんな作品だった。

映画感想:『20センチュリー・ウーマン』の各シーンを切り取って写真展を開きたい


20th Century Women | Official Trailer HD | A24


素晴らしい作品だった。今のところ、2017年に観た映画でベスト。


稚拙な感想に聞こえてしまうかもしれないが、とにかく「キラキラ」している。ポスター写真の雰囲気そのままだ。
1970年代という女性の社会的な立場の議論が活発だった時代、今よりも社会進出する女性が少なかった時代、そんな時代の3人の女性が生きることの複雑さとその素晴らしさを教えてくれる。


この映画の良さを3つの点から伝えたい。

キャスト

まずキャスティングが素晴らしい。

15歳ジェイミーを演じるのはルーカス・ジェイド・ズマン。子どもらしさも残りつつ、声がわりして声は大人という少年と青年の狭間をうまく演じている。彼のこの一瞬はこの映画にしか残らないだろう。

ジェイミーの母ドロシーを演じるのはアネット・ベニング。自身も4人の母親であるアネット・ベニング。思春期の息子への接し方への葛藤。また自分の考えをしっかり持った大人の女性。1人の人物の2つの表情がうまい。

子宮頸がんと闘病する写真家アビーを演じるのはグレタ・ガーウィグ。赤髪と闘病による物憂げな表情が印象的。

ジュリーを演じるのはエル・ファニング。少し悪いことも覚えて、ただ漠然とした不安もあり、基本的に無愛想。そんな17歳のジュリーを見事に演じている。

かつてヒッピーコミュニティーに属していた大工ウィリアムを演じるのはビリー・クラダップ。知らなかったのだが、トニー賞も受賞した名優。言葉が少ない役柄だが、元ヒッピー中年の悲哀がじんわり伝わってくる。抑えた演技が魅力的だ。

音楽

1970年代のアメリカではロックが流行っていた。当時流行っていた曲をいくつも聞くことができる。
またそれとは違う、要所で流れる爽やかなBGM。カラフルな水玉が弾けるようなメロディーで、彼女たちの生の一瞬一瞬の輝きを感じることができる。

映像

1つ1つのカットに深いこだわりがあるのがすごく伝わってくる。
劇中のどのシーンを切り取っても、写真展が開ける作品にできるようで。

中でも一番好きなのは、ジェイミーがスケボーを使っているシーンだ。
緩やかな坂を、緩やかにスケボーで下るジェイミー。そして、それを少し離れて車で追う母ドロシー。
そして最後ではその2人が重なり…




大成功するという話でもないし、大失敗するという話でもない。
衝撃的な展開がある話でもない。
劇中で描かれている彼女たちの人生の一部は、一部でしかなくハイライトということでもない。

では、なぜここまで魅力的なのか。
それは監督/脚本家の人を見る視点の優しさと繊細さ、それをうまく表現した映画としての出来が素晴らしいからだろう。



色々な感情を抱えている時にまた観よう。そう決めた。

映画感想:『ウルフ・オブ・ウォールストリート』には「理性」という概念が存在しない


『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 予告編


欲望。多くの動物が生きるために持っているもので、動物である人間ももちろん持っている。
しかし人間が他の動物と違うのは「理性」があるということだ。
「理性」により人間は高度な文明を築きあげ、大きな力を持つようになった。


そして本作の主人公、レオナルド・ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートには「理性」がほとんどない。
金、女、ドラッグ。欲望の象徴として語られるそれらに対しての欲求が異常だ。
金を得るために人を騙し、得た金を女とドラッグ、数々の贅沢品につぎ込む。

ここまで欲にまみれた人物なんかいないだろうと思うと、実話なんだから驚く。ジョーダン・ベルフォート本人に、本作でえがかれる数々のgreedyなエピソードはほとんどが本当にあったことなんだとか。自家用船舶が沈没しかけている時に、盟友?ダニーに何よりも優先して「ドラッグ」を取りに行かせたことなんかも実話なんだから飽きれてしまう。


「ベルフォートは異常だ。普通の人には理性がある。自分とは違う。」

この映画を観て多くの人はこう思うだろう。


ただベルフォートは最初からそうだったわけではない(少なくとも映画の中では)。就職した先に金融マン(ダラス・バイヤーズクラブの撮影で劇ヤセしていたマシューマコノヒー)の言動に引いているし、ダニーが彼にドラッグをプレゼントした時は(最初は)固辞した。

決して根っから欲望深いわけではないし、成人してからも健全な範囲で「稼ぎたい」と考える普通の人だった。

しかし彼には才能があった。「人を騙してお金を稼ぐ」才能が。

金を女とドラッグ、数々の贅沢品が手に入れられるようになると、その快楽にはまっていく。普通はある程度のところで自分の過ちに気づくのだが、彼はお金という「力」があったため抜け出すことができない。そうして長い期間快楽の世界にいたため、その世界から抜け出せなくなってしまう。彼は自分の逮捕された後にも全く反省する様子が見られない。「退屈だ」と言っているだけだ。


人間は欲には勝てない動物なんだろう。

理性の強弱に多少の違いはあるとしても、誰しもが欲に負けることはある。
100%、欲望を我慢することができます。なんて人はいない。


彼も普通の人だった。「きっかけ」と「機会」があっただけ、だ。

もちろん理性で抑制できるに越したことはないが、欲望を抑えるためには「きっかけ」と「機会」を可能な限り減らすことだろう。
自分の頭だけでコントロールしようとすると、どこかで破綻する。

※ちなみに、決して彼を肯定をしているわけではない。

こういう話を聞いたり観たりすると「お金=怖いもの」というなんとなくのイメージを持つ人が多いのだろうけど、
ひふみ投信代表、藤野 英人氏が書いた『投資家が「お金」よりも大切にしていること』を読むといい気がする。きっとそのイメージが払拭されるだろう。

映画感想:『マダム・イン・ニューヨーク』は日曜の夜に鑑賞するのが最適


映画『マダム・イン・ニューヨーク』予告編


これまで5本程度見てきたインド映画。
通して感じることは「ストレート」だということである。


起承転結はあるのだが、本当に真っ当に起承転結。大どんでん返しはない。期待を裏切られないという点で、安心して観ることができる。

また、メッセージもストレート。観た人に「この映画からどういうメッセージを感じましたか?」と聞いたら、9割以上が同じことを答えるだろう。インド映画では、登場人物自身の言葉でメッセージが語られる。否が応でもメッセージが伝わってくる。

そして何と言っても、ダンス。映画の盛り上がるシーンでは、軽快な音楽が流れ、皆が踊り出す。

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そんなインド映画の印象だが、それが映画に限った話かというとそういうことでもない。
実際にインドに行って感じたインドのイメージとも合致する。

旅行者をだまそうとする悪いインド人が多くいるのだが、彼らは込み入っただまし方はしない。

空港からのプリペイドタクシーに乗っているといつの間にか「観光センター」なるものに連れて行かれ、約22万円と約17万円のツアーを提示される。

誰が騙されるというのだ。そんな高いツアーに申し込む人はいるのだろうか。
それがいるらしい。いるからそのような「素直な」騙し方をするインド人が今も存在しているのである。

※参考
【インドに行ってきた】ニューデリー1日目 - ならず犬 映画ブログ

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本作は正にインド映画の王道である。

トーリーは単純。英語のできないマダムが、単身ニューヨークに行き英語に奮闘するという話。
もちろんゲイでチャーミングな先生や振られ続けても全く折れないフランス人など魅力的なキャラクターは登場するものの、大枠のストーリーは単純で大きな驚きはない。

メッセージはとにかくストレート。この映画で伝えたいこと、それを主人公がクライマックスの部分でスピーチで語ってくれる。

そしてダンス。他のインド映画と比較して控え目だが、ご多分にもれず合間に歌とダンスが挿入される。ないと不安になり、出てくると安心する、それがインド映画のダンスである。


インド映画は、期待を裏切らない。Bad endは基本的になく、安心して観ることができる。
子どもを含めた家族で観るもよし、恋人と観るもよし、もちろん1人で観てもよい。
働いている人であれば、日曜日の夜に観るのがいいだろう。


いつか期待を裏切るような作品にも出会ってみたい気もする(ex.Bad endな作品、ダンスなしの作品)安心ブランドのインド映画、次はどんな作品が出てくるのか楽しみである。

映画感想:『ビフォア・ミッドナイト』でロマンを語ることの意味を知る


映画『ビフォア・ミッドナイト』予告編

ビフォアシリーズで1番良かった。

全2作が半ば夢の話なのであれば、本作は現実の話。

ジェシーセリーヌは共に年を取っており40代。2人は夫婦となっており、双子の娘がいる。生活を共にしていると、どうしても話す内容も現実的になる。車の中の会話、喧嘩のネタ。。2人の人生は、夢の中ではなく現実的なものであるということがわかる。そんな現実にストレスを抱えたジェシーセリーヌは、前2作ではなかった大げんかをする。

というのが本作の大筋のストーリーだ。


格段面白い展開というわけではないし、2人の喧嘩の内容も人類の大問題といった大それたものではなくありがちなものだ。


しかしジェシーの発言、行動が素晴らしい。

ジェシーセリーヌの全て受け入れている。彼女は仕事に情熱を傾けていて世に言う主婦ではない。彼女は子どもが生まれた瞬間に途方にくれたらしい。彼女とジェシーは、多くの物事に対する意見が異なる。

また役作りとしてそうしているのだろうが、20代の若かったセリーヌはそこにいない。体型は年相応になっているし、喧嘩をした時の顔はひどく疲れているように見える。

ただ、ジェシーはそんな彼女を全て受け入れると話す。無条件の愛を提供すると。



またジェシーは夢(未来からやってきたという話)を語る。


ジェシーという男の魅力はそこなんだろうなと思う。
1,2作目でもそうだったが、彼は夢を語るのがとてもうまい。所謂ロマンチストだ。
40歳をすぎるとさすがにロマンチックな発言は減るが、3作目で事態を好転させたのは彼のそういう部分だ。


長い時間を共に過ごすとどうしても改まること、ロマンを語ることが照れくさくなったりする。全てが現実的で物事はうまくいくのだろうか。人と人の関係において、全ての意見が一致することはない。些細なすれ違いであっても、やがてそれは大きく、クリティカルな亀裂に発展する。現実的なことばかりに目を向けてしまうと関係性が崩壊してしまう。そうして多くの夫婦関係は冷め、別れを選択することになるのだろう。


ビフォアサンセットの感想で「運命を信じるのは人間だけだ」と書いたが、運命を語るようなロマンチシズムは人間に必要なものなのではないか。


ジェシーセリーヌに言葉をかける。


「真実の愛を求めるならここにある。完璧ではないが、これこそが本物の愛だ」


その気持ちを、たとえ自分が年を取ったとしても忘れてはいけない。

夢を語ることの意味を知った本作は、地味ではあるが大人の名作だと思う。