映画感想:『ナイトクローラー』と”Post Truth”


映画『ナイトクローラー』予告編

“Post Truth”

英オクスフォード英語辞典が毎年発表する「その年を象徴する単語」として、2016年に選ばれた言葉だ。

定義として、こう書かれている

“Relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief.”

客観的な事実が重視されず、感情的で個人的な訴えが政治に影響を与える状態のことを指す。

何がPost Truthの時代をつくり出したかと言うと、SNSである。
人々は、自分の意見/考えとは違う、見たくない、知りたくない情報とは距離を置き、自分にとって都合の良い情報を中心に入手するようになった。それは、より長い時間滞在してもらうために、個人の嗜好に合わせた情報を流すSNSの性質がそうさせている。

今の世の中で100%客観的な情報(=Truth)を入手することはできるのだろうか。メディアやSNSを通してそれを得ることはできない。自分の目で、耳で、実際に見聞きしなければ真実を知ることなどできないのである。


ナイトクローラー』のテーマは、いきすぎた欲望=狂気から「真実」がねじ曲げられてしまう話である。

ジェイク・ジレンホール演じるジェイクは定職がなく工事現場のフェンスを盗んで小金を稼ぐほど困窮している人物。そんな彼は事故現場を撮影(動画)するカメラマンに触発され、事故や事件を撮影する仕事を始める。

よりスキャンダラスな映像を撮るために客観的な映像を撮ることはなくなり、次第に彼の行動はエスカレートしていく。


彼は発砲事件の現場に行き、今にも息を引き取らんばかりの男性を至近距離で撮影した。

必死に彼を助けようとする救急隊員がいる中、その様子を撮影することはいいのだろうかという議論はあるが、現場の様子をそのまま撮影した映像ではある。


彼は交通事故の現場に行き、より良いアングルの映像を撮影するために、車にひかれ事故死した男性の遺体の場所を変える。

ためらいもせず、顔色一つ変えず、死体を引きずって位置を変える彼は異常だ。そしてその映像が客観的なものだとは言えない。事故自体は間違いなくあったものだが、現場を意図的に動かすことは作為的だ。


そして彼の行動はエスカレートしていき、ついには彼だけが持っている情報で「事件をつくり出す」ことさえしてしまう。


しかし、ジェイクの狂気も怖いものだが、もう1つの狂気がある。
ローカル局の朝番組の監督ニーナである。

彼女はジェイクからスキャンダラスな映像を買い、彼女のニュース番組の視聴率を上げようとする。
彼女が番組で通貫して語りたいと思っているメッセージは「落ち着いた生活をおくる中間所得層から富裕層(白人)に忍び寄る都市犯罪(白人以外の人種によるもの)」であり、そのメッセージの論拠になる情報を積極的に取り上げようとする。

逆に、そのメッセージを否定するような情報が出てきた際には報道しない。
真実ではなく、感情的に「忍び寄る都市犯罪」というメッセージを重視している。


映像自体が作為的なのも問題だが、その映像を流す報道番組の編成でメッセージが作為的なのも問題なのではないか。
正確に言うとそれ自体が問題なのではない。「報道”風”情報番組」だと言うのであれば、編成が作為的であっても問題はない。「報道番組だとうたっているいるのにも関わらず、作為的であること」が問題なのである。


Post Truthが叫ばれ、SNSの情報の信憑性には疑いがもたれるようになった。SNSプラットフォーマーもFake Newsの排除のための対策を実行している。
ただし、それはシステムの欠陥への対応策であって、本質的な解決策にならない。例えばFacebook上で、とある報道番組の公式ページ上でニュースの映像が流れていたとする。そのニュースが作為的なメッセージで語られたものであったとしても、プラットフォーマーは虚実の判断をすることはできないだろうし、多くの情報を得る側の人もそうだろう。

冒頭に書いたように、100%客観的な情報を入手することは不可能だろう。
ただし疑うことはできる。信頼している友人が流している情報だから、古くからあるTV局が作っている番組だから、そんな外側で情報の虚実を判断するのではない。情報があふれる今の時代だから情報の取捨選択を他社にゆだねるのではなく、自らの判断によって情報を取捨選択する必要があるのだと思う。

映画感想:『アデル、ブルーは熱い色』は、アデルの半開きの口で全て語れる


アデル、ブルーは熱い色


恋人同士、家族の人間関係って、どう表現したらよいのだろうか。

自分は、よく「曲線的なベクトル」をイメージする。

一人一人自分の人生のベクトルを持っていて、人と人が関係を持つときに、それが絡み始める。
絡み方は様々だ。つかず離れずのカップルであれば、2人のゆるやかな曲線が伸びていく中、時折それらが絡む。
本作のように短時間で激しい感情をぶつけ合うような関係性においては、曲線は激しく絡み合う。

そして長く関係が続くということは、波形が近いということではないか。
人生の波形が合わない場合、2本の曲線的なベクトルは絡むことができなくなり、関係がなくなっていく。


この映画を観て、そんなイメージが思い起こされた。


アデルは高校生、あどけない顔をしていて感情的。よく食べて、寝て、そして恋をする。
エマは美術系の大学に通う大学生、落ち着いていて、自分のことをよくわかっている。

2人はたまたま出会い、そして恋をする。激しく燃えるような恋をした。
ただそれも長くは続かない。2人のベクトルが違う方向に向いてしまったから。

エマは大学を卒業し、創作の道を追求する。
アデルは高校を卒業して先生になるが、まだ若く精神的に独り立ちをしていない。
そんな2人のベクトルは交わらなくなり、そして関係性は崩壊していく。


そんな人生の一時期を切り取ったのが本作だが、エマとアデルを演じる2人の演技が素晴らしい。特にアデルを演じるアデル・エグザルホプロスの演技に惹かれる。化粧っけのない顔、常に半開きの口、何か深く考えているようで若さ故の迷いによる憂いの表情。そしてレズSEXシーン。役が憑依すると言うが、まさにその通り。アデル・エグザルホプロスはアデルそのものだった。


人生とある時期における激しい恋の作品は数あれど、ここまで本能的で自然な作品は今まで観たことがない。かつての自分に重ね合わせてもよし、今の自分と恋人・家族のベクトルはどうなっているんだろうと考えるのもよい。何にせよ、アデルに感情を揺さぶられるのは間違いない。

映画感想:『レヴェナント』からポジティブな教訓を導き出してみた


映画「レヴェナント:蘇えりし者」予告1(150秒) アカデミー賞主要3部門受賞

これは見事なゾンビ映画

映画タイトルは『レヴェナント(The Revenant)』。直訳すると、帰ってきた人、亡霊、幽霊という意味である。

まさにその通りで、レオナルド・ディカプリオ演じるグラスは、熊に襲われ大けがをし、生き埋めにされそうになりながら、復習のためにアメリカ北西部の極寒地帯を突き進む。いつ死んでも、いつ生きることを諦めてもおかしくはない状況で、復讐のために生にしがみつく姿はまさに亡霊や幽霊。

傷口を火をおこして焼いたり、パイソンの臓物を生で食したり、死んだ馬のお腹の中で一夜を過ごす姿はすまさまじい。

また、彼の生きる目的は「復讐すること」。自分や家族の生を目的としないことは、本質的に(動物的な観点では)生きていることにはならない。


アラスカを中心に活動をしていた星野道夫さんの『旅をする木』というタイトルのエッセイにこんな話がある。


”日々生きているということは、あたりまえのことではなくて、実は奇跡的なことのような気がします。つきつめていけば、今自分の心臓が、ドク、ドクと動いていることさえそうです、人がこの世に生まれてくることにしてもまた同じです、妻が流産するかもしれないという不安の中で、やはり生命が内包するもろさをぼくは感じました。

「流産をする時は、どうやってもしてしまうものよ。自然のことなんだから、それにまかせなさい」

と言った妻の母親のひと言ほど、私たちを安心させてくれる言葉はありませんでした。そういう脆さの中で私たちは生きているということ、言いかえれば、ある限界の中で人間は生かされているのだということを、ともすると忘れがちのような気がします。” 『春の知らせ』より


それ(死)を医学の力で克服しようとするのが人間であり、また自らの復讐のために生きようとするのが人間だ。

劇中で、原住民が白人のことを「野蛮人は野蛮人だ」と言っている。
野蛮人とはすなわち自然の摂理に従わない動物=人間のことであり、その最たるが、グラスなんだろう。毛皮のために原住民のテリトリーを侵害し動物を狩る白人もそうだが、本来死すべき状況だったところを執念で生きるグラスは、圧倒的な自然との対比された形で描かれている。

「そこまでして…」そう思うのは不自然だからだ。彼の生は、不自然なのである。

ただ、人間の強さもそこにある。自然の摂理に必死に抵抗してきたからこそ、ここまで文明が発展し、また平均寿命が1,000年前の倍以上にまで伸びているのである。

いかに人間が自然の摂理から背いているか、ということを自覚するのは非常に良い作品なのではないだろうか。

ただ、だからと言って「自然に帰る」ということを主張したいのではない。自らの存在の不自然さを自覚しているのとしていないのとでは、例えば自然災害に遭遇したりした時に、慌てることなく、ポジティブな締念から前向きな気持ちを持つことができるのではないか。

日本という自然災害の多い国では、そういった見方をしてみても良いのではないだろうか。

映画感想:『みかんの丘』で老人達がみかんを作り続ける理由


映画『みかんの丘』『とうもろこしの島』予告編

仮に北朝鮮とアメリカが戦争になり、日本が巻き込まれたとして、自分たちはどうすべきなのだろうか。
慌ててミサイルが飛んでこなそうな過疎地域に避難する?それとも国を守るために自衛隊に入隊する?
色々な選択肢があるだろうが、経験したことがない事態に慌てる人がほとんどだろう。


本作はどうだろうか。

ジョージアグルジア)のアブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人のイヴォとマルガス。集落のエストニア人はエストニアに避難をしてしまったが、彼らは残ってみかん栽培とその木箱作りを続けている。

彼らは戦争に加担しようとはしない。食料を求める兵士がいれば何も言わずに食料を与え、家の近くで兵士がなくなれば何も言わずに埋葬する。そして、負傷している兵士がいれば、どこの兵士かは関係なく介抱をする。

一見彼らは何も考えてないように思える。来るもの拒まず、淡々と目の前の事象に向き合うだけ。動揺はしない。

ただ、イヴォとマルカスは「集落に残る」という選択をしている。他の皆が避難してしまった状況下、大きな選択だ。

また、介抱している兵士達(アブハジアを支援するチェチェン人アハメドジョージア兵ニカ)がお互いを「殺す」と言い争えば、イヴォはこう主張する。


『殺す殺すと。そんな権利誰がお前らに与えたんだ』


ハメドは答える。


『この戦争だ』


その言葉に対し、イヴォは言う。


『ばかやろう』


その言い争いの前、乾杯をする際に、イヴォはこうも言った。


『死に乾杯』


『君ら(助けた兵士2人)は死の子ども達だ』


イヴォにとっての死とは、戦争に参加することなのである。
戦争に参加し、普通の生活を放棄すること。それはすなわち人間性を放棄するということだ。国や宗教が違ったら、相手がどんな考えを持っているかは関係なく殺すというのは、人間性の放棄でしかない。


だからイヴォはみかん作りを手伝い続けている。だからイヴォは、それが誰であろうと、お腹をすかせていたり、怪我をしていりしたら、特に何も聞くことはなく助ける。戦争がない時と、できるだけ同じ生活を送ること。それが彼の戦いなのだ。


この映画を観て、『この世界の片隅に』を思い出した。イヴォよりも受け身ではあるものの、主人公すずにとっての第二次世界大戦は「できるだけ変わらない生活送ること」だった。


『これがうちらの戦いですけえ』


彼女はそう言っていた。


戦争になる前、戦争になった後でも、それに反対なのであれば自国の方針に異を唱えるべきだと思うが、どうしようもなくなったときにできることと言えば「可能な限り人間らしい生活を送る」ことなのだと思う。


最後に、日本語版公式サイトの監督メッセージを引用したい。

私の主観的な考えですが、人間にとって一番大切なものが芸術です。この「みかんの丘」には、人間の精神、尊厳にとってとても強い人間的なメッセージが込められています。私は映画、芸術が戦争を止めることが出来るとは決して思ってはいません。しかし、もし戦争を決断し、実行する人たちがこの作品を見て、少しでも立ち止まり、考えてくれるならば、この映画、芸術を作った意義があったと考えています。

映画感想:詩とは何かを知りたければ『パターソン』を観るべき


『パターソン』本予告 8/26(土)公開

普段の生活で詩を読むことはあるだろうか。
小学校、中学校の国語の教科書に載っていて、なんとなく勉強をした人がほとんどではないだろうか。
些細なことをなんでこんな複雑で大げさな表現をするのだろう、そう思っていた。

本作は、そんな詩の本質を知ることができる映画だ。



まず作品の中身を紹介したい。

何も起こらない映画である。

「いやいや、何も起こらないことはないだろう。間違って公開されてしまった作品ならわかるけれども、海外で作られて日本で公開されているほどの映画がそんなことはないだろう」

そう言われても、本当に何も起こらない。


スター・ウォーズシリーズでカイロ・レンを演じていることが有名なアダム・ドライバーがバスの運転手パターソンを演じている。彼はあまり起伏のない人物だ。

平日は、毎日ほぼ同じ時間に起き妻にキスをする、同じ朝ご飯(シリアルに牛乳)を食べ、日中はバスを運転し、夜はご飯の後に犬の散歩に出かける。その途中で常連のバーに寄り、ビールを一杯飲むのが彼の楽しみだ。

少し変わった妻(モノクロの草間弥生風な文様を好み、部屋を勝手に装飾する)がいたり、その時々で人と会って話をしたりはするが、ルーティンに変わりはない。

彼の表情にも大きな起伏はない。

そんな毎日、月曜日から月曜日までを映したのが本作だ。


そして彼には趣味がある。

詩を書くことだ。

自分のバスに乗り込んで発車を待つ時間、1人で過ごす昼休みの時間、家に帰って夕ご飯までの時間。
隙間時間で彼は詩を書く。

『Love Poem』

We have plenty of matches in our house.
We keep them on hand, always.
Currently our favorite brand is Ohio Blue Tip,
though we used to prefer Diamond brand
That was before we discovered Ohio Blue Tip matches.
They are excellently packaged, sturdy
little boxes with dark and light blue and white labels
with words lettered in the shape of a megaphone,
as if to say even louder to the world,
“Here is the most beautiful match in the world,
its one-and-a-half-inch soft pine stem capped
by a grainy dark purple head, so sober and furious
and stubbornly ready to burst into flame,
lighting, perhaps, the cigarette of the woman you love,
for the first time, and it was never really the same
after that.
All this we will give you.”
That is what you gave me, I
become the cigarette and you the match, or I
the match and you the cigarette, blazing
with kisses that smoulder toward heaven.


何の変哲もない日常を切り取った詩である。

オハイオブルーチップスというマッチがお気に入りで、昔はダイアモンドブランドというマッチが好きだった。
その炎は君(妻)で自分はタバコ、あるいは逆。プロットで言うとそんな簡単なものだ。マッチがあって妻のことを考えただけ。ただ彼は、それを彼だけの言葉で豊かに表現している。

パターソンは詩という表現を通して、ルーティンで構成された自身の人生を豊かなものにしている。
外からどう見えるか、ではなく、自分がどう感じるかということを大事にしている。

そんな詩が10本弱、作中で表現される。

起伏のない日常と詩。それらをセットで、繰り返し、見て聞くことで「詩とは何か」ということを少し感じることができる。

詩とは、普段見過ごしがちな些細で、一方で大事なことを、言語化するプロセスを通じて感じることではないだろうか。


それを映画で表現するには、派手な表現はいらない。

赤と青のボディースーツを来た人が、手から糸を出している姿は日常ではない。そこに詩は必要ないのだ。「Fantastic!」という言葉で十分だ。

本作は何も起こらないからいいのだ。何も起こらないから詩とはどういうものかを知ることができるし、普遍的な日常の尊さを感じることができる。


最後に、私の好きな谷川俊太郎さんの詩を1つ紹介したい。

『これが私の優しさです』

窓の外の若葉について考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えていいですか
あなたが死にかけているときに

あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?

それがあなたを考えることにつながる
とそう信じてもいいですか
それほど強くなっていいですか
あなたのおかげで

映画感想:『ショート・ターム』で目線を合わせる


映画『ショート・ターム』特報

こういった施設を舞台とした作品をいくつか観てきた。

古くは『カッコーの巣の上で』が有名だろう。ジャック・ニコルソン演じるマクマーフィーが刑務所から逃れるために精神病院に入院する話だ。彼は精神病患者を特別扱いせず、仲間とした扱った。

最近の作品だと『人生、ここにあり!』だろうか。労働組合員のネッロは正義感が強すぎるあまり精神病院に移動させられてしまう。そこで彼は、精神病患者を率いて床貼りの仕事を始める。

そして本作。問題を抱える18歳までの若者のためのグループホーム「ショート・ターム12」。ブリー・ラーソン演じるグレイスは、その施設のケアマネージャーとして働いている。

3作品に共通する事項とは何だろうか。

それは、どれも「目線」が重要だということだ。

マクマーフィーは、精神病患者を仲間だと考えた。
ネッロは、精神病患者を同僚だと考えた。

グレイスは、ホームの子どもたちと同じ目線で話をしようとする。絵が好きな子どもとは一緒に絵を描き、時には一緒に車を破壊する。それは彼女自身がホームの子どもたちと同じ境遇だったという自然な共感もあり、子どもたちには違和感なく受け入れられている。


私たちは、傷ついた人たちや弱い人たちと接する際に、上から目線になりがちだ。

カッコーの巣の上で』の看護婦長ラチェッドの強権的な姿勢や、『ショート・ターム』のネイト(短期アルバイト?)の自己紹介での言葉「恵まれない子どもたちのために〜」という発言がそれにあたる。

弱っている人に強くなりなさい、と言うのではない。自分が弱っていた時には何を考えたいたかを話そう。
病気の人に頑張れ、と言うのではない。今世の中で何が流行っているかの話をして、少し元の世界に戻してあげよう。


傷ついた人と接する際に、いかに同じ目線でいられるか。
テーマとしては重たいものだが、ラストシーンには救いがあり、重苦しいテーマをポジティブに考えることができる作品である。


そしてブリー・ラーソンの演技が素晴らしい。一見暗そうな雰囲気を纏っているのだが、最終的にはポジティブな彼女。『ルーム』もそうだが、演技とは思えないほど自然体。彼女の今後も楽しみである。

映画感想:『ニュー・シネマ・パラダイス』は映画好きのための映画


映画「ニュー・シネマ・パラダイス完全オリジナル版」日本版劇場予告


映画好きの映画好きによる映画好きのための映画。

タイトルは『ニュー・シネマ・パラダイス(イタリア原題:Nuovo Cinema Pradiso』)』、映画好きのパラダイスのような映画なのだ。


まず音楽が良い。

音楽が良い映画は良い映画だ思う。例えば『ゴッドファーザー』。『ゴッドファーザー』に音楽がなかったら、静かにすたれゆくマフィアの物語にただただ悲しい話になってしまう。そこに哀愁のある音楽があるために、『ゴッドファーザー』は名作なのである。

本作も音楽がとても良い。
作品全体にあるノスタルジックな雰囲気に音楽がマッチしている。優しく、愛情があふれていて、そして未来への希望がある音楽。去年からの流行りで「音楽生演奏映画」というものがあるが『ニュー・シネマ・パラダイス』があれば行ってみたい。


Ennio Morricone: Cinema Paradiso with Gimnazija Kranj Symphony Orchestra



出演者も良い。
主人公トトの少年時代を演じたのは、現地シチリアで生まれ育ったカシオ少年。演技っぽくなく、純粋に映画が好きな少年の役柄にぴったりだ。彼の映画を観ている時の笑顔がとても魅力的である。映画好きのあらゆる年代の人が、彼の笑顔を見て自分の原点を思い出すだろう。「ああ映画って良いものだ」と。「映画とは、至高の娯楽」なんだと。


また映画を観る姿勢についても考えさせられる。
現代の映画館で映画を観るときは「静かに、音を立てずに観なければならない」とされている。観客は面白くってたまらないシーンでも笑い声をあげてはいけないし、悲しくて仕方ないシーンで嗚咽をもらしてもいけない。演奏シーンがあったとして演奏後に拍手をしてもいけない。隣に座っている恋人に、ちょっとした感想を話すのもルール違反だ。
本作中の映画館、シチリア島の映画館ではそんなルールなど存在しない。子どもたちは面白いシーンでは大声を出して笑い、大人たちはキスシーンがカットされた場面で大きなため息をつく。何度も同じ映画を観たおじさんはその映画のストーリーを口に出してしまう。とにかく自由だ。

かつて自分が訪れたインドの映画館もそうだった。ちょっとした感想を語りたい場面では隣の人に平気で話しかける。電話に出る人もいる。ヒンドゥー語はわからなかったが「よお、悪いけど今映画観てるけど後にしてくれる?え?ふられた?それは大変だ!」なんてこと話してるんだろう。
いつの間にか映画は静かに観る神聖なものになってしまったが(日本人の国民性もあるだろうが)、実際に声は出さないまでも、声を出さざるを得ないほど感情をゆさぶられるものだという映画の本質を思い出させてくれる。


最後に、これはもう何千回、何万回と語られたであろうが、ラストシーンは映画史に残る屈指の名シーンだと思う。

本作は、観ている間に終止目が離せないほどのシーンが続くわけではない。初見では「名作と言われているけど、それは過大評価なんじゃないか?確かにトト少年の映画を楽しむシーンとかはいいけど…」と思ってしまうほど、中だるみと感じてしまうところもある。自分が観たのはオリジナルバージョンだが、完全版だと3時間近くあり、ラストシーンまでが長い。

ただ、それまでのすべてがここにつながっているのだと思えるワンシーンであり、そこまで観て良かったと心の底から思える。
涙、涙、映画好きなら感動せざるを得ない。「映画とは、かくも素晴らしいものなのだ」という感情があふれてくる。

名前負けしてしまいそうなタイトルである『ニュー・シネマ・パラダイス(イタリア原題:Nuovo Cinema Pradiso』)』。
名前負けは全くしていない。むしろ、この映画のためのこのタイトル、である。


こんな映画に出会えるから映画好きはやめられない。