映画感想:『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を観て思考の整理手段を考える


『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』予告

人は、自らの頭の中では完結することができないほどの思考があふれると、思考を外に出そうとする。
その最たるものが、喜怒哀楽だ。喜怒哀楽の感情が、自分の中で完結できないほど大きなものであると、それが表情や仕草、態度や言葉になって表出する。
ただそんな単純なものではない「自分でもとらえきれない感情」を抱えた時、またそれが大きなものであるとき、表出の仕方は人それぞれだ。

独り言をブツブツと言って、思考を整理する人もいる。
他人に話をして、整理をする人もいる。
自分の考えや感情を文字にすることで、整理する人もいる。

彼の村上春樹氏もこう語っている。

自分のために書いている、というのはある意味では真実だと思います。
(中略)
そこには「自己治癒」的な意味合いもあったのではないかと思います。なぜならあらゆる創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。つまり自己を相対化することによって、つまり自分の魂を今あるものとは違ったフォームにあてはめていくことによって、生きる過程で避けがたく生じる様々な矛盾なりを解消していく——あるいは消化していく——ということです。

※『職業としての小説家』より


思考のアウトプットという行為は、方法は人それぞれ違いはあれど、思考でがんじがらめの状態から脱するために必要なものなのである。


そして本作はどうだろうか。
本作の主人公デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)はウォールストリートのエリート銀行マンだ。
美しい妻と十分すぎる財力。表面だけ見ると申し分のない存在。

そんな暮らしのとある日、妻と共に仕事に向かう途中で交通事故に遭い、妻を亡くしてしまう。
しかし彼は涙が出ない。悲しいという感情もない。彼は自分の空虚さを実感し、それに戸惑う。

自分はどうしてそんな空虚なのか、それさえもわからない彼は、思考の棚卸しを始める。


多くの人は、冒頭に書いたように「ぶつぶつ言ったり」「文字にしたり」することで棚卸しをする。
しかし彼は違った。

彼の周り、特に妻に関わるものを「分解」「破壊」をし始めたのだ。
表情を見ても、やり場のない感情を解消するために、カタルシスを感じるためにやっているわけではなさそうだ。
だってそれは一過性のものではないから。何日も何日も、ついには仕事を辞めてまで「分解」と「破壊」をし続ける。
冷静に、ネットでブルドーザーまで買って破壊をする。

彼は自分の思考を整理する過程で、現実の破壊が必要だったのだ。


そして彼がわかったこと、それは最期に彼の口から語られる。

「愛はありました。ただ、疎かにしていました。」

たったそれだけ。ただ彼は、分解と破壊をすることで、自分のその真実を理解することができたのである。


人によって違う「思考の整理」の手段。
この映画を観て、改めて自分と近くにいる人がどうなのかを考えてみるのも面白いのではないだろうか。