映画感想:『インファナル・アフェア 無間序曲』は香港返還の抒情詩

インファナルアフェア ? 無間序曲 (字幕版)

インファナル・アフェア 無間序曲』は「インファナル・アフェア」、三部作の二作品目。
ゴッドファーザーと同じく、間の二作品目は、過去の話が中心になっている。

時代は一作品目である『インファナルアフェア』の2000年代初頭から遡り、香港返還(1997年)前の時代とその当日が描かれている。

ラウとヤン、またウォン警部(一作目では警視)とマフィアのボス サムが一作目の彼らになるまでのストーリーだ。
当時の香港マフィアの大ボスクワンの息子であり後継者のハウと他マフィアとの覇権争いを軸に話は展開する。

舞台は返還前の香港。当時の香港はイギリスから中国に返還される不安と期待が入り混じった混乱の様相だったことだろう。
例えば香港警察で使われている言語は英語であり、国民を守ることが職務である警察官が本当の母国語を職務では使えないという矛盾がそこには存在する。本作の中では描かれていないが、上層部にイギリス人もいたのだろう。

香港返還に対する香港住民の想いとは、一言で言うと「混乱」だろう。何しろ99年間イギリス(一時期日本)の領地だったのだ。例え返還後に一国二制度になるのだとしても、住民は混乱をする。自らの重要なアイデンティティの1つである国家が変わるのだ。当たり前だろう。

香港返還に対する人々の想いを「インファナル・アフェア」の登場人物の想いと通して知ることができる。
彼らもまた、混乱し、目標を見失っているのである。

ラウは自らのボスの妻に入れ込み、ボスではなく、彼女のために行動するようになる。彼女が去った後には、表向きはサムのために警察にい続けるのだが、そんな彼にサムへの忠誠心はないだろう。

ヤンは自らの血筋から逃れて善人になりたかったが、その血筋ゆえに警察学校退学となった。ウォン警部に潜入捜査官として拾われるものの、警官でありつつ、そうあるために、異母兄弟マフィア組織に在籍するという矛盾した立場だ。

ウォン警部は、職務への一途さがゆえに信義とは反する一線を超えてしまう。一線を越えたがために、大きな犠牲も払うことになり自身を失っていく。

ンガイ・ハウは、父と同等の存在になろうとするものの、強権的になってしまい敵を多く作ってしまう。まわりが敵だけになり、家族にすがる姿は、彼の目指すべき方向は父親だったのだろうかと疑問を持つ場面だ。


そんな香港住民と重なる彼らと対照的なのはマフィアのサムだ。
お調子者に見えて策略家であり、自らの目標である「香港における権力奪取」に向けて、あわてず慎重な行動をしている。唯一冷静だったサムだけが自らの目標を達成することができた。

そんな彼らはそれぞれの「香港返還」を迎える。
ラウは新たなマリーを見つけ、ヤンはさらなる混沌の中へ、ウォン警部は志し新たに自らの意志を固め、サムは香港返還の花火と共にマリーへの想いとは決別し、権力の階段を登りつめていく。


香港の歴史と善悪へのアンビバレンスな感情が絡む重厚な作品となっている。
インファナル・アフェア」のメインストーリーでないものの、三部作をより大きな物語たらしめる名続編であったと言える。

映画感想:『インファナル・アフェア』はアジア映画最高峰


Infernal Affairs - Official Trailer [HD]

アジア映画というと、ジャーキー・チェンが「アチョー!」と言っていたり、
あるいは「少林サッカー」のやりすぎなCGのイメージだったり、あまり繊細な作品のイメージがなかった。

本作には驚いた。マフィアに潜入する警察官と警察に潜入するマフィアの話で、
設定だけ見ると純粋なエンタメ作品のようだが(実際面白い)、
登場人物の精神面のゆれにも焦点があたっており、一筋縄では語れない繊細な作品にもなっている。


本作『インファナル・アフェア』は香港映画でかり三部作の一作品目だ。
所謂フィルム・ノワール香港ノワール)と呼ばれるジャンルに分類される。
フィルム・ノワールとは、虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画を指した総称のことである。

潜入捜査官としてマフィアに入り込むヤン(トニー・レオン)と、
そのマフィアから警察に潜入するラウ(アンディ・ラウ)、2人の主人公を中心に話は展開する。

ラウは警察官として順調に出世しており、上層部からも部下からの信頼を得ている。
一方のヤンは、マフィアのボスサムからの信頼を得ているものの、
元々がマフィアの家系でマフィアになりたくなかったこともあり、群れず、一匹狼で孤独だ。


本作の面白さは、設定もさながら、その2人の揺れ動く心情にある。

ヤンは警察官になりたくてもなれなかった(落第した)。
警察官になるためだけに、自分が嫌っていたマフィアの世界に身をおいている。
その心労は当然あり、精神科医に通っている。

ラウは警察官になりたかったわけではないが、順調な出世、周りからの信頼、
マフィアであることがバレるリスクを考え、警察でいることの選択肢を持つようになる。


そんな対照的な彼らの立場が交錯し、最終的に悲劇につながっていく。
ヤンはまだ救われている。そうありたかった警察官として埋葬されたからだ。
まだ2作目、3作目を見ていないが、ラウは救われないのではないだろうか。

善人になりたくてもなれない、また善人になろうとするがために犯罪を起こすという矛盾。
そんな悪い循環にはまってしまうのがラウであり、その自らの運命との戦いが今後描かれるのだろう。
本作冒頭にも出てくる仏教的な無常の考えが元にあり、アジア映画ならではの世界観である。


決して、派手な銃撃や逃走劇等、クリミナルエンタメ作品によくある要素がある映画ではない。
「ボーンシリーズ」のようなスカッとする映画ではなく、本作はむしろ見終わった後に気持ちが重くなる映画だろう。
重厚な香港ルノアールを期待する人、また時間のある人(3作品全て見たくなる)、アジア映画の最高峰を観たい人、そんな人におすすめの映画だ。

映画感想:『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』と『俺の全て』


Before Sunrise - Original Theatrical Trailer

燃えるようなアバンチュール うすい胸を焦がす これが俺の全て

スピッツの名曲『俺のすべて』の歌詞の一部だ。

「アバンチュール」という言葉は、既に日本では死語となってしまっているが、本来はフランス語であり「冒険、珍しい経験」の意味を持つ。
ビフォア・サンセット』、本作はまさに「サンセット(日の出)」までのアバンチュールの話。


『俺の全て』の歌詞に沿って、本作を振り返りたいと思う。

燃えるようなアバンチュール うすい胸を焦がす これが俺のすべて

イーサン・ホーク演じるジェシーはスペインにいる彼女に会いにいくが別れることに。あとは帰るだけというからっぽ、うすっぺらい感情の中、ジュリー・デルピー演じるセリーヌが飛び込んでくる。知的な美人が隣で本を読んでいて、『マダム・エドワルダ』を読んでいる。それは、彼の胸を焦がすだろう。

※『マダム・エドワルダ』は哲学者バタイユの官能的な短編小説

歩き疲れて へたりこんだら崖っぷち

ジェシーセリーヌはひらすら歩き回る。
お金もない、時間もない。その限られた時間を可能な限り堪能しようとしているのだろうか。
夜中のウィーンを歩き回り、ついに公園の芝生にたどり着く。

そしてふと現実に目をやる。

「明日には別れなければならない」

そんな崖っぷちの現実を見てしまったジェシー
船の上で「今日限り」と2人で決めたばかりなのに。

微笑むように 白い野菊が咲いていた
心のひだに はさんだものは 隠さなくてもいいと
河のまん中 光る魚がおどけるようにはじけてる

そんな時にセリーヌを見ると、うっとりした情熱的な目線のセリーヌジェシーの方を見つめている。
「情動を抑えなくてもいい」と言わんばかりに。そして彼も彼女も一層夢に没入していく。

燃えるようなアバンチュール うすい胸を焦がす
そして今日も 沈む夕日を背にうけて


ビフォア・サンセット』というタイトルにあるように、
本作は彼が帰国する翌日まで、朝日が昇るまでの話だ。

例えば彼が帰国するまでに残り5日あったとしよう。
ここまで情熱的な夜を過ごすことができるだろうか。
否、1日もない時間だからこそ、燃えるよなアバンチュールになるのだ。

俺の前世は たぶんサギ師かまじない師
たぐりよせれば どいつも似たような顔ばかり
でかいパズルの あちらこちらに 描きこまれたルール
消えかけたキズ かきむしるほど おろかな恋に溺れたら

ジェシーセリーヌに「電車を降りよう」と口説く時に、こんな話をする。

「君は結婚していて今の夫に嫌気がさしている。
過去の色々な可能性を検証しないまま、そこまできてしまったので後悔している。
そして今君はタイムスリップしていて、もしかしたら結婚するかもしれない僕との関係を検証する機会を得ている。さあ一緒にウィーンを歩こうよ(確かこんな感じだったような)」

なんと情熱的な言葉、自分にはとても言えそうもない。

彼らはサギ師というより、どちらかというとまじない師だろう。
サギ師は現実を(嘘の)現実を語り、まじない師は夢を語るものだから。

燃えるようなアバンチュール 足の指もさわぐ
真夏よりも暑く 淡い夢の中で

彼らの時間は現実ではなく夢の中。
夜中のウィーンは情動的なのだが、彼らが去った後の朝の広場はゴミ収集車が走っていたり、
2人が座っていた道端のイスはただの古い木だったりする。

何も知らないおまえと ふれてるだけのキスをする
それだけで話は終わる 溶けて流れてく

饒舌だった彼らは、関係が深まるにつれて言葉少なになっていく。
言葉を発せずとも、感情が伝わるようになる。

燃えるようなアバンチュール うすい胸を焦がす
そして今日も 沈む夕日を背にうけて

山のようなジャンクフーズ 石の部屋で眠る
残りもの さぐる これが俺のすべて

そしてラストシーン、彼らは別れを惜しみ肉をむさぼるかのようなキスをする。
相手への感情を全て吐き出してしまわんばかりに。


洋画の邦題はたいていセンスのないものに改悪されていたりするのだが、本作の邦題はそういう意図かはわからないが、触れるべきテーマを含んでいる。<邦題>
『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)』 ※劇場公開時:『恋人までの距離(ディスタンス)』

距離と書いて、あえて「ディスタンス」と読ませるのはなぜか。原題には「distance」というワードは含まれていない。

人間関係において、距離はとても重要なものだ。
例えばジェシーセリーヌが隣町に住んでいたらどうだろうか。

「もう二度と会えないかもしれない。だからウィーンを歩こうよ」

ただの軽いナンパに思える。ジェシーが異国からきていて、明日には帰国するという「距離」が2人の関係を近づけた。
遠いのに、だからこそ近くなったという逆説的な距離のパワーである。

ただし、本当に遠くなってしまったら関係を深めるのが難しくなってしまう。
彼らが話をしていたように、電話や手紙は数回やり取りをして終わってしまうだろう。
だからと言って、現代のようにFacebookでつながるというのも、何とも味気ない。
ソーシャルメディアは現実的すぎて、恋人同士の関係を深めるような情熱的なものではない。


そんな絶妙で時間が限定された距離感を感じながら、自分とそのまわりの人との距離感を考えたり、今までの出会いを思い起こしたりするのが本作の楽しみ方ではないだろうか。

果たして彼らの距離(ディスタンス)はどうなっていくのか。
2作目、3作目を楽しみたいと思う。

映画感想:『美女と野獣』はLGBTに対するディズニーのスタンス表明


エマ・ワトソン 映画 『美女と野獣』 予告編


良かった。

「1991年製作のアニメ作品を単純に実写したもの」だと思い侮ることなかれ。製作費1億6,000万ドル(約176億円)は伊達ではない。


  • 美男美女

ベル役エマ・ワトソンはもちろん、野獣役のダン・スティーヴンスはイギリス出身のイケメン俳優

  • 脇役

スター・ウォーズ』新三部作でオビ=ワン・ケノービを演じたユアン・マクレガーが燭台役を演じている(わからなかった)

  • ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)シーン

f:id:nesolla:20170503114117p:plain

これがものすごい。たった4分のシーンだが、彼の過去の監督作品以上のコストがかかっているとのこと。

“It’s a four-minute number that cost more than Mr. Holmes‘s entire budget,”
the director says, referring to his 2015 film about the retired Sherlock.

『Inside the filming of Beauty and the Beast's live-action 'Be Our Guest'』より
http://ew.com/movies/2017/03/10/beauty-and-the-beast-filming-be-our-guest/


まさに豪華絢爛。アニメでこそ表現できるような色鮮やかで次々に変わる歓迎のショーを、見事に実写とCGで表現している。魔女の魔法によって荒廃したお城とのコントラストもあり、アニメ版よりも華やかなシーンに感じられる。

  • 主題歌

主題歌は1991年制作のアニメと同様『Beauty and the Beast』なのだが、歌っているのはアリアナ・グランデジョン・レジェンド
ジョン・レジェンドは『ラ・ラ・ランド』に出演をしていたが、ハリウッドからのラブコールが多いようで)


Beauty and the Beast (From "Beauty and the Beast"/Official Video)

1991年に歌っていたセリーヌ・ディオンとピーボ・ブライソンのオリジナルVer.もいいのだが、今回の主題歌もファンタジー色を若干弱めた現実世界のラグジュアリー感を感じるVer.も良い。


そして今回の『美女と野獣』だが、物議をかもしている点がある。

ディズニー映画で初めてLGBTQ(ゲイ)のキャラクター(ル・フウ)が登場したことだ。監督のビル・コンドンもその旨を公言しており、米Attitude誌のインタビューで下記のように回答をしている。

“LeFou is somebody who on one day wants to be Gaston and on another day wants to kiss Gaston,” Condon revealed. “He’s confused about what he wants. It’s somebody who’s just realizing that he has these feelings. And Josh makes something really subtle and delicious out of it.”

“That’s what has its payoff at the end, which I don’t want to give away,” Condon added. “But it is a nice, exclusively gay moment in a Disney movie.”

ル・フウは、いつかガストンのようになりたいと思うと同時にいつか彼にキスをしたいと思っているんだ。
彼はそれに困惑していて、ジョシュ(ル・フウを演じた俳優)はそれをうまく演じてくれた。
最後には決着がつくんだけど、その内容は今言わないよ。
ただ(何にせよ言える事は)とても素晴らしいことだよね。ディスニーにとって初めて、ゲイが登場する瞬間だよ。

これの発言は各地で波紋を呼び、ロシアの同性愛反対の議員が同国内での上映中止を求めたり、アメリカの一部の映画館では上映を取りやめたりしている。


また冒頭、ベルが歌いながら町を歩きまわるシーンで本を貸す神父が黒人で、また他シーン(舞踏シーン)にも黒人が登場する。


良いか悪いかは別として、ディズニーの今後の姿勢はダイバーシティーを表立って表現する姿勢なのだろう。

ウォルト・ディズニーは人種・性差別の姿勢を持っていたとされ(その時代のアメリカ人は多くはそうだったのだろうけど)、少なからずディズニーにはそのイメージがつきまとう。

ディズニーが人種/性別/宗教/国を限定しない形で「夢」を届ける存在であるためには、直面していかなければいけない点なのだろう。

上記のようにゲイが登場したことに対する批判もあり、また黒人が多く登場することに対する批判もある。
舞台設定がヨーロッパなのにあえて黒人を登場させていることがポリティカル・コレクトネスの押し付けだという声もある。

近年、ポリティカル・コレクトネスに対する辟易さから来る反抗もあり、世界がゆれている。
そんな中ディズニーが示したスタンスは、アメリカ国民、その他の国の人々はどう受け取っているのだろう。(興行収入を見ると、単純に楽しまれているように思えるが)


とまあ、ディズニーのスタンスについて考えなくても、GWや休日に見て夢の世界に浸り現実世界の活力にすることができる良い作品ではないでしょうか。

映画感想:『素晴らしき哉、人生!』はベタだが王道ではない作品

素晴らしき哉、人生!  HDマスター [DVD]

It's A Wonderful Life
素晴らしき哉、人生!

というタイトルだが、その感想を一言で言うと、

It's A Wonderful Movie
素晴らしき哉、映画!


もう70年も前の作品だが、その感動が色褪せることはない。

130分と長い作品であり途中中だるみしていることは否めないのだが、最後のシーンでそのフラストレーションはどこかにいってしまう。中だるみすることもまた人生であり、その中だるみこそ自分の人生を作っていて、そして素晴らしいものだと知る。

主人公ジョージは、なんて幸福な男なのだろう。家族、町の皆に愛されている。お金が潤沢にあるわけではないが、それが大事なのではない。



勧善懲悪という言葉は、誰もが知っている言葉だろう。善事を勧め、悪事を懲らしめる(よくない事とする)ことだ。多くのストーリーで採用される、ストーリーテリングにおける王道的な概念である。

本作は、勧善懲悪のストーリーになっていない。ジョージの行いが善だと言っているわけではないし、町一番の富豪ポッターの行いが悪だとも言っていない。最終的にジョージが大金持ちになるわけではないし、ポッターが懲らしめられるわけではない。

単純に、友が多くいるジョージの人生を礼賛するストーリーになっている。

仮に結末が違ったとしよう。
町の皆の力を結集してポッターを懲らしめる。そしてジョージは大金持ちに。めでたしめでたし。

It's A Wealthy Life.

ではあるものの、Wonderfulかどうかはわからない。


ジョージには多くの友人がいること、それが如何に素晴らしいことか。
実にベタな示唆である。本作の結末はそれでいいのだ。だからこそ名作なのである。

クリスマスの話で4月ではいささか季節外れではあるが、どの時期に見ても多幸感に包まれる作品である。アメリカでは年末にTV放送されるのが定番であるらしい。我が家でも、今年のクリスマス前後に上映したいと思う。

映画感想:『平成たぬき合戦ぽんぽこ』と『妖怪ウォッチ』


映画 平成狸合戦ぽんぽこ CM 1994年

自分が3才ぐらいの小さい子どもだった時、祖父によく近くの川に連れていってもらったのを覚えている。
海の近くの下流なので比較的流れは穏やかではあるものの、泳げもしない子どもなので川に落ちたら溺れてしまうかもしれない。

祖父は事あるごとにこう言った。

「川にそんなに近づいたらあかん。河童の川太郎に引きずり込まれるで。」

河童が怖かった。家族ではない大人でさえ得体の知れない恐怖を感じることもある年齢で、
河童という妖怪の存在はさらに得体が知れない。

当然、川からできるだけ離れて歩いた。

                                        • -

地上派で数年に一回放送されているため、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』を一度は見たことがある人が多いだろう。

本作の舞台となっているのは多摩ニュータウン
東京を中心とした都市部に人口が集中し、住宅難に伴い東京郊外の多摩地区の開発が進められた。
元々野山、里山だった地域に重機が入り、開発が進んでいく。
そこに住んでいたたぬきが住処を奪われる危機に直面し、開発をさせないために「化学(ばけがく)」を駆使して闘うというストーリーが本作の大筋だ。


中盤から終盤にかけて、たぬき達は大掛かりな変化(数々の妖怪)をし、既に人が住んでいる地区に乗り込む。

巨大な骸骨や龍、数々の異形の妖怪(全て水木しげる御大の作品に出てくる妖怪)が住宅地に出現し、人々を恐怖に陥れる。
そして人々は「開発に対して自然が怒っている。これ以上山を、森を切り崩すのはよくない」と考えを改める。

とたぬき達は考えていた。

しかしニュータウンに住んでいる人々の感じ方は違った。
もちろん現代の科学では説明することができない現象を恐れる人はいたものの、多くの人(特に子ども)は恐怖心を感じることはなかった。

何かのショーだと思い、単純にその現象を楽しむだけ。たぬきが力を使いはたして妖怪が消えた後には「もう終わりー?」という少年もいた。
全く怖がる様子がない。むしろ楽しんでいる。


そして2017年の現代。人々にとっての妖怪はどのような存在なのか。
2013年にゲーム発売、2014年にアニメ化された作品を知っているだろうか。

そう『妖怪ウォッチ』である。
ウィスパー(白い火の玉状の妖怪)やジバニャン(車に轢かれて死んだ猫の地縛霊)など、ポップなデザインのキャラクターが登場する。
困ったことを引き起こす妖怪を人間である小学生ケータが説得し、時には戦って問題を解決する。そして、その妖怪と友達になる、というストーリー。
水木しげるの描いた妖怪とは方向性が違う、キャラクターとしての妖怪が『妖怪ウォッチ』に出てくる妖怪である。


ここで冒頭の話に戻ろう。

自分の祖父の家は四国にある。都市部ではない四国では未だ野山が人間の暮らしと共存する形で存在しており、
言われてみれば、いかにも妖怪が出そうな雰囲気がある。
そこで住んでいる人々は、親から子へ、祖父母から孫へ、土地に伝わる伝説を伝承してきた。
土地の雰囲気もあり、子どもはそれを信じ、科学の発展した現代においてもある種の「科学を超越した存在」として存在を認識していたりする。


各地で都市化が進む今、「妖怪の危機」の状態ではないだろうか。

妖怪という存在は『妖怪ウォッチ』などで多くの人に知られるものではあるが、
水木しげる柳田國男南方熊楠が後世に残そうとした妖怪とは神秘性のあるものだ。

ゲゲゲの鬼太郎』のアニメではなく、水木しげるの漫画を読んだことがあるだろうか。
無邪気に読めるものではなく、どこか不気味な雰囲気、不安さえ覚える雰囲気を纏ったものである。

妖怪とは、自然界におけるタブーを具現化したもので、それゆえに神秘性を伴っているものではないだろうか。

今回の話で言っても「里山を守る」ということは、経済合理性から考えれば「守る」という選択肢にはならない。
ただ「妖怪が里山を切り崩すのを阻む=触れてはいけないタブー領域」として、科学や経済で説明できない論理で考えてみてもよいのではないか。

元外務官僚の佐藤優氏と池上彰氏の対談書『新リーダー論 大格差時代のインテリジェンス』にこんな一説がある。

佐藤
「社会にはタブーも必要です。タブーというのは、言論の自由や民主主義の観点からは否定的に扱われますが、むしろ、ある種のタブーが存在する社会の方が良い社会なのです。」

(中略)

佐藤
「「生物は何物にも代えがたい」という戦後日本の生命至上主義は、理屈を超えたものです。いわば一種のタブーです。
こういうタブーはどの社会にもあります。もし人間の生命も、すべて経済的に計算され、医療費も、すべて経済合理性で計算されることになれば、恐ろしい社会になります。」

妖怪がいる社会とは、そういったタブーが存在する、人間と自然のバランスがとれる社会ではないだろうか。

時代によって形が変えるということはもちろん必要なことである。

確かに、妖怪ウォッチは『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメのブームが去って忘れられつつあった「妖怪」の存在を思い出させてくれた。
本作『平成たぬき合戦ぽんぽこ』においても、最終的に里山を追われたたぬき達が、ゴルフ場で楽しそうに宴会をするシーンが描かれている。
時代に対応し、たくましく生きるたぬき達の生きる力に元気づけられるシーンだ。

ただ、本質を忘れてはいけないのではないか。
「妖怪」は、日本に古くからいる異形の「キャラクター」ではない。

今改めて、過去の民芸研究の御大達、水木しげるの残したかった「妖怪」という文化を見直し、伝承していかなければいけないと思っている。


だいぶ本筋と話がそれたが、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』という映画は、変わること変わらないこと、そして残さなければいけないこと、
それをジブリの素晴らしいアニメーションとストーリーテリングで楽しむことができる作品だった。

映画感想:『別離』で人の葛藤、苦悩、弱さを知る


Jodaeiye Nader az Simin - Trailer (Starring: Leila Hatami, Kimia Hosseini)


イランという国にどういうイメージがあるだろうか。

石油が主要産業の国? イランは、石油の埋蔵量4位の国家。輸出収入の80%を石油が締める。

宗教が強い国? イランは、宗教上(イスラム教)の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制の国家。

対米感情が強い国? アメリカと長年仲が悪い。直近では、アメリカによりシリア攻撃に対して、ロシア、シリアと結束して対抗する姿勢を示している。

このように、自らが属している多くの先進国とは様子の違う国であるように思える。
日本から距離も遠く、精神的な距離感も他先進国よりも遠い国でもある。

しかし本作を見ることで、イランに対する印象は変わる。
もちろん上に書いたように、石油が主要産業であったり、宗教が強い力を持つ国であることに変わりはないのだが、
作品の中で描かれているイランの人々は自分たちとそう変わりはない。

離婚する人が増えていたり、介護が問題になっていたり、貧富の格差があったり。
何よりも、人間の本質というのは、どんな国/人種/性別/年齢であってもさほど変わりがないことがわかる。
良くも悪くも、普遍的な人の葛藤、苦悩、弱さ、そして醜さを描いているのが本作である。


本作は、2011年、アカデミー外国語映画賞他、数々の賞を受賞している。「別離(Nader and Simin, A Separation)」のタイトルにもあるように、イランの中産階級家庭の夫ナデルと妻シミンの別離、離婚調停のシーンから始まる。しかしそれだけではなく、イランに限らない普遍的な様々な「隔たり」が描かれており、本作を単純な離婚物語ではないヒューマン作品に昇華させている。

1.夫婦の隔たり

ナデルとシミンは「移民をするかしないか」ですれ違っている。
ナデルは「(アルツハイマーの)父親を置いていけないから、国を出ることはできない」と主張し、シミンは「娘のことも考えると、(イランにいるよりも)移民をした方がいい」と主張する。どちらも譲る様子は見られず、話は平行線。話というよりも、双方自分の主張をしているだけで会話がない。

2人とも家族のため(ナデルは父親、シミンは娘)のためだと言いつつ、当の本人の口からそのように語られた様子はない。ナデルの父はアルツハイマーでまともに話すことができないし、娘テルメーは「イラン国外に行きたい」が主張しているようには思えない。火種の話題はイラン他、特定の国の生じる可能性がある話題ではありつつも、その主張内容自体はイラン人特有のものではない。ナデルとシミンは自分が「こうあるべき」だと思うことを頑なに主張しているだなのである。

<背景にある現代イランの事情>
■イランにおける離婚率はここ数10年で急増しており、2000年の約5万組から2010年には約15万組に達した。一方で、結婚適齢期を迎えた若者120万人のうち20万人が未婚とされ、離婚率の上昇と婚姻率の低下が、日本と同様に社会問題となっている。頭を悩ました政府は、アフマディーネジャード大統領(2005-現在)の音頭で、結婚資金のローンや集団結婚式など婚活支援対策に乗り出したが、効果のほどは不明である。
■イランでは、結婚する時に、離婚の条件や離婚の場合に支払われる慰謝料の金額なども含め、結婚に関する細かい取り決めがなされ、それが何ページにもわたって、契約書に書き留められる。本作の冒頭タイトル・バックの一番最後に映し出されるのは、そうした結婚契約書の1ページである。

映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より

2.親子関係の隔たり

前述のように、夫婦は家族と対話することなく、それが原因で隔たりができてしまっている。

ナデルの父はアルツハイマー病でまともに話をすることができないが、
とある事故がおきて依頼、全く言葉を発しなくなってしまう。まるでナデルへの抗議かのように。ナデルの父は、そこまで苦労しながら介護されるのを望んでいないのかもしれない(ただし社会通年の壁もあり、施設入りというわけにもいかない)。

娘テルメーは、父母の行動に対して明確なスタンスを述べることはしない。「明らかに快適であろう母の実家ではなく、父のいる自分の家で暮らす」ことを除いては。彼女はその行動を通して、両親への抗議、家族3人で暮らしたいという主張をしている。

そしてナデルとシミンはそれに気づくことはない。自分のことで頭がいっぱいなのだ。

<背景にある現代イランの事情>
■2000年以降、イラン人の平均寿命は70歳まで延び、介護が必要な高齢者が年々増加しているが、イランでは老人介護の施設が非常に少ない。それは、介護は家族の役割であり、施設に入れられた老人は大変不幸であるという社会通念が強いためであるという。
映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より

3.宗教

イランでは、社会に対する宗教の影響が強い。また、宗教を元に普段の自身の行動指針を定めている人もいるし(ラジエー)、コーランに誓っておきながら自身の主張を反転させる人もいる(テルメーの学校の先生ギャーライ)。

コーランに誓えないあまりに苦しむ人もいるし(ラジエー)、それを利用して自身の主張を正当化仕様とする人もいる(ナデル)。

そんな濃淡入り混じる社会における様々な人と人の隔たりが本作では描かれている。

<背景にある現代イランの事情>
イスラムの教えでは、女性は親族以外の男性の前では、髪をスカーフで覆うことが義務付けられている。学校など公共の場では黒などの地味なスカーフを付けることが一般的だが、シミンのように、TPOに合わせてカラフルでおしゃれなスカーフを付ける女性も多い。敬虔なムスリムであるラジエーは外出時には黒いチャードルと呼ばれる半円形の一枚布を身にまとい、全身を覆っている。
■ナデルの父が失禁したことに気づいたラジエーが電話で相談した相手は、イスラム教の聖職者。あとのシーンで、ナデルから慰謝料を受け取ることは罪になるかどうかも問い合わせていることがわかる。
映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より

4.経済的な隔たり(格差)

ナデルの家庭は、夫が銀行員、妻が英語教師、母の実家は「ナデルの保釈金4000万トマン=約360万円」をすぐに払えるぐらいの家庭、と比較的金銭面で余裕のある家庭だ。

一方でラジエーの家庭は、夫が無職で借金取りに追われている状態、そのため妻は妊娠中にもかかわらず遠く離れたナデルの家まで仕事をしにこなければならない、という金銭面で余裕のない家庭だ。

どこの国、社会でも経済格差はあるものだろうが、現代イランに置いてもそういった格差(隔たり)があることがわかる。

<背景にある現代イランの事情>
■100トマンは約9円なので、介護の1ヶ月の賃金30万トマンは約27000円、ナデルの保釈金4000万トマンは約360万円、示談金1500万トマンは約135万円ということになる。イランの通貨単位は、他に、リアル(10リアル=1トマン)がある。なお、首都テヘランでの一般家庭では、例えば、ナデルのような銀行員の1ヶ月の給与は、約60万トマン(約6万円)と言われている。
映画『別離』を理解するためのワンポイント | イントロダクション | 映画『別離』より


上記のような様々な「隔たり」の問題があり、そこから受ける「損」をできるだけ自分が被らないように皆が「嘘」を重ねていく、というのが本作の大筋である。悲しいのが誰もが「悪人」ではないということ。

もちろん自らが追い込まれたときに「嘘」で身を守ろうとするのは決してよい事であるとは言えないが、それが「隔たり」を深く、そして後戻りできなくしていく。そして彼らが引き起こしたものではない「社会問題」がなければ、そうはならなかっただろう。皆「自分は悪くない」という感情があり、内向きになっていく。

2017年、今の時代にこそ見る作品ではないだろうか。各国で「断絶」が問題となっており、2017年は国と国(アメリカとシリア/北朝鮮/ロシア)、そして国内で(もうすぐフランスの国政選挙だが、何がおきてもおかしくない)、断絶が引き起こす現実が問題になっている。

世界全体で、自分を守るための「不寛容」さで覆われ、さらに彼らの状況を悪化させている。損をしたくないという囚人のジレンマが、各側面における「別離」を生んでしまっている。人の葛藤、苦悩、弱さ、そして醜さが生んだ「別離」だと思う。

政治的な話になってしまったが、本作はエンターテインメントとしても十分楽しむことができる。
「誰が嘘をついていて、真実な何のなのか」ということが最後までわからず、鑑賞者はそれを推理することを楽しむことができる。

社会派でありつつもエンタメ。イラン映画は見たことがなかったが、評判にたがわぬ佳作だった。