映画感想:『スポットライト 世紀のスクープ』は「いぶし銀」な報道映画
スポットライトという言葉が好きだ。
メディアの本質とは、スポットライトであると思っている。
日々刻々と時間が過ぎ去る中で、様々なことが起こっている。
それを全て知ることは不可能だし、メディアが全てを報道するのは不可能だ。
メディアは限りある範囲の中で、人々にとって必要な情報を伝える役割を担っている。
そんな限りある状況の中で、埋もれていってしまう事象=情報ももちろんあるだろう。
例えば本作で取り扱われているスキャンダル「聖職者により性的虐待のスキャンダル」。小さくは報道されていたりはしたが、そのインパクトは小さく、また話題にならないためスキャンダルの深層への追求がなされない。
そうして泣き寝入りする被害者が何人いたことか。
その事態に気がついたボストン・グローブの少数精鋭取材チームの「スポットライト」の記者達は「性的虐待をした人が、たまたま聖職者」だったのではなく、「多くの聖職者が性的虐待をしており、それは協会組織の問題も大きく関わっている」ことを突き止める。
そして裏取りをして情報を公にするのだが、まさにそれは「スポットライト」をあてることに他ならない。
埋もれていた事象に光を当てること、そうして社会が良い方向に向かう「ムーブメント」作ることが報道なのだと思う。
時にぶつかり、時に励ましあい、「報道によって世の中を良くしたい」という想いの元集まったチームで、埋もれた情報にスポットライトをあてる様子を熱く、冷静に描いた本作はとても良い作品だった。
地味かもしれないが、終わり方も良い。
「俺らの報道大反響だぜ!ウェーイ!」で、どこぞのロックバンドが演奏するエンディングテーマが流れ出す
という形ではなく、
「お前日曜日の朝になんで会社きてるんだ(キャップ)」
「へへっ(記者)」
そして、静かな音楽とともに報道の社会的影響をテキストで伝える
いぶし銀、彼らの仕事はこれで終わらず、今後も様々な情報にスポットライトをあてていくんだろうと予感させるエンディングだった。
報道、ということに関してホットな話題があったので紹介をしたい。
何年か前から、子宮頚がんのワクチンの副作用に関する論争が起きているのを知っているだろうか。
『子宮頚がんワクチン訴訟、製薬会社など争う姿勢 東京地裁』
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HGH_T10C17A2CC1000/
本件に関しての取材(子宮頚がんワクチンに関する副作用に関して、科学的根拠がないこと)をしている村中璃子氏が、科学誌『ネイチャー』などが主催する「ジョン・マドックス賞」を受賞した。
氏自身が公開している受賞スピーチ全文がこちら。是非読んで欲しい。
『ジョン・マドックス賞受賞スピーチ全文「10万個の子宮」』
https://note.mu/rikomuranaka/n/n64eb122ac396
そして彼女が「スポットライト」をあてたことで、ムーブメントが起きつつある。
『子宮頚がんワクチン勧奨再会求め学会が生命』
http://www.sankei.com/life/news/171209/lif1712090047-n1.html
本件に関する記述をこれ以上すると長くなってしまうので控えるが、何が伝えたいかというと、ボストン・グローブや村中氏のようなジャーナリストへの尊敬の念と情報は世界を良い方向に変える大きな可能性がある、ということである。また、自分がその一助となれればとも思っている次第である。
映画感想:『マンチャスター・バイ・ザ・シ-』とアメちゃん
アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編
過去に何かしらの事件があって闇を抱えている人物が、新しい出会いによって救われる。
そんな話はたくさんある。
多くの作品は、作中の前半の状態から変化するのが普通だ。
幸せだったのが転落しバッドエンド。
不幸せだったのが希望が見えハッピーエンド。
そんな作品を見た人の中にはこう言う人もいるだろう。
「そんなことは映画の中の話だ。現実はもっと厳しい」
そして本作の現実も厳しい。
ケイシー・アフレック演じるリーは兄を亡くし、かつて自分が住んでいた町マンチェスター・バイ・ザ・シー(イギリスのマンチェスターではない)に帰ってくる。
兄には息子がおり、しばらくリーと同居することになるが、リーは過去のとある出来事により深い闇を抱えており、中々他人、甥にさえも心を開くことはない。
よくある映画のストーリーであれば「甥がリーに良い影響を与え、ぶつかりながらもリーは過去を克服する」という話だろうが、本作はそうはいかない。
多少は前向きにはなるものの、リーは最後まで過去を克服することはできない。
それが現実なのである。人は、そう簡単に精神的な傷を克服することはできない。
ただ、だからといって、諦念を持ち開き直るということもないと思う。
吉田秋生『海街dialy』5巻にこんなシーンがある。
3姉妹の長女幸(看護師)が、町の喫茶店店主に話をするシーンである。
幸
当事者に寄りそおうとするのと、当事者になるのでは、天と地ほどにも違いました
ガンの疑いがわかってからなんだか家族とも距離ができてしまったみたいで
もちろん私が勝手にそう感じただけですけど
病気になったっていうだけで…住む世界が違ってしまったみたいで…
患者になるってこういうことなんだって
はじめてわかった気がしました
少しでも患者さんの心に寄りそえたら…って思っていたつもりでしたけど
しょせんひとごとだったんですね
傲慢でした
店主
ひとごとでかまわんのとちゃう?
看病するもんが病人といっしょにヘタレてしもたら困るのは病人や
しょせん代わりに痛い思いをしてやることも死んでやることもできひんのやし
目の前でばったんコケよったもんがおったら
どないしたー
大丈夫かー
ぐらいはマトモな奴なら誰でも言うわ
あんたらの仕事も根っこはおんなしちゃうの?
大阪のおばちゃんやったら
アメちゃんあるで―――
なめとき―――って
よーわからんこと言うかもしれへんな
幸
アメちゃんですか…
店主
そーや
けどアレであんがい役に立つもんやで
病気は治らへんでも
アメちゃんでもなめとこかなー
思うこともあるよってな
店主の言うとおりいっしょに痛い思いをすることはできないし、そのつらさの半分を引き取ることもできない。
ただ、何もできないかというとそういうわけではなく「アメちゃんを差し出すこと」はできるのだ。
リーは長い時間がたっても、立ち直ることはできていない。
しかし徐々に前向きにはなっている。
彼の甥の「(若い)生きる力」が彼にとってのアメちゃんであり、
それによって過去を完全に振り切ることはできないまでも「まあ、ちょっとがんばって生きてみようかな」といった心情に変化しているのではないか。
その積み重ねなんだと思う。
弱っている当事者にひっぱられない周囲の人の生のエネルギーが、レリジエンスを強化していく。
それが積み重なることで、人は立ち直っていくのだと思う。
終始暗い雰囲気ではあるものの、リーが立ち直る萌芽も見え前向きな作品であると感じた。
映画感想:『永い言い訳』は必ずしも悪いものではない
言い訳の本質とは「現実の否定」だと思う。
小さな話で言うと、学校に遅刻したときの言い訳。
よくアニメやドラマ、小説で描かれる場面だが、学生達は遅刻をしたことに対して言い訳をする。
学生「突然の嵐に巻き込まれてびしょ濡れになったので、着替えに家に戻っていたら遅れてしまいました」
先生「…(今日は快晴だが)」
またよくあるのが、浮気をしている亭主の言い訳。
対外的な言い訳(妻への言い訳)は「あの人は仕事の付き合いで、たまたま一緒になったから飲みにいっただけだ」といったもの。
また自分に対しての言い訳もある。妻とは別の女性に会っていることに対しての罪悪感が全くない人は少ない。「自分はいい夫である」と自分に対して言い聞かせるために、何かを買って帰ったり、家事や子どもの世話を熱心にしたりする。罪滅ぼしとも言う。
共通しているのは、言い訳を通して「現実を否定している」ということだ。
前者は単純に寝坊して遅刻した現実ものを、やむを得ない理由があったため遅刻として非難されるものではないとしている。
後者は浮気をしている現実を、妻に対して違う事実を伝えたり(事実の否定)、自分は良い夫であると考えたり(感情の否定)することで、否定しようとする。
言い訳を通して、自分にとって都合の悪い現実を見ないようにするのである。
ただ、言い訳をし続けると、次第に現実を受け入れるようになることもある。言い訳をするということはその対象としている現実も意識し続けるということであり、次第に現実を直視せざるを得なくなる。
本作のタイトルは『永い言い訳』。
タイトル通り、永い(長い)期間言い訳をし続ける作品である。
作家の衣笠幸夫は、予期せぬバス事故で妻の夏子を亡くしてしまう。しかし、彼はこれっぽっちも泣かない。妻がバスに乗っていた時、幸夫は浮気をしており、夫婦の関係は冷えきっていた。
一方、夏子と共にバスに乗っていたの友人の夫 陽一は、妻を亡くし2人の子どもの世話に困っていた。幸夫は陽一が仕事(トラックの運転手)でいない間、子どもの世話を買って出る。
幸夫は子ども達と一緒に時間を過ごすことで、家族とは何かを知った。そして紆余曲折あり、妻夏子の死を受け入れていく。
人生は、他者だ。ぼくにとって、死んだ君が今の今になって、「あのひと」になりつつあるような気もするよ。遅いかー。
小説『永い言い訳』より
最初は「妻が死んだ。妻にとって自分とはなんだったんだ」という問を直視する勇気がなかったために、幸夫は言い訳を始めた。自分だって家族ごっこできるんだぞ、と。
しかし子ども達と陽一と時間を過ごすことを通して、次第に幸夫は「家族とは、他人とは何たるか」を考え始める。小説が売れてからは自分のことしか考えてこなかった状態から大きな変化だ。
『永い言い訳』。西川監督はこのタイトルに、言い訳のポジティブな側面、受容と回復の意味を込めたのだと思う。
ただ、そんな長い時間言い訳をしている時間があるかというと、そういうことでもない。
愛すべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくない。ー(中略)ー 人間死んだら、それまでさ、俺たちはふたりとも、生きていく時間と言うものを舐めていたね。
小説『永い言い訳』より
言い訳する状況にならないにこしたことはないが、仮にそういう状況になったとしても言い訳したっていい。ある程度の時間が必要なのであれば、それでいい。ただ他人が待ってくれるかは別問題だよね。
そんな、西川監督の優しい目線と現実への冷静な目線を感じた。
映画感想:『リップヴァンヴィンクルの花嫁』で岩井俊二が切り取る"一瞬"
岩井俊二はフォトグラファー的な映画監督だと思う。
"一瞬"を切り取る作品であるように感じる。
『リリィ・シュシュのすべて』では、「大人になる前の少年、少女」だ。
インターネットという時代性を絡め、その年代特有の人間の儚さ、残酷さ、美しさ、そういった相反する側面を描いている。
岩井俊二の作品は、優しい視点と残酷な視点のどちらかで切り取られるものだが、『リリィ・シュシュのすべて』は後者だ。
『四月物語』では、「大人に片足を突っ込んでいる大学生」だ。
"春"という季節性を絡め、その時期特有の甘酸っぱさを描いている。
『四月物語』は、優しい視点の作品だ。
『リップヴァンヴィンクルの花嫁』はどうだろう。
本作は何の"一瞬"を切り取った作品なのか。
それを語るには、Cocco演じるリップヴァンヴィンクルこと里中真白の考えを理解しなければならない。
彼女は作中でこういう発言をしていた。
「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」
しかし彼女はその幸せを掴もうとしない。なぜか。
それは、彼女が幸せが壊れることを恐れているからだと思う。
彼女の人生は、基本的に「幸せ」ではなかった。
少しよくなる予兆があったとしても、また元に戻ってしまう。
いつしかこう思うようになる。
「結局、(不幸せな状態に)戻ってしまう」
そして幸せから逃げるようになる。
幸せの予兆があったとしても、それを失うことが怖いがために自分から逃げてしまう。
期待もせず、暗い部屋の中から抜け出すことができない毎日を過ごしている。
そんな彼女が最後に望んだことは、「自分が想像する幸せの絶頂において死ぬこと」だ。
黒木華演じる皆川七海との関係、友達と結婚、だったのである。
『リップヴァンヴィンクルの花嫁』で岩井俊二が切り取った一瞬。
それは、1人の女性の人生における"最高の幸せ"だったのだと思う。
3時間という長さのある作品だが、その一瞬を際立たせるために必要な長さだったのだろう。
最後に、本作は優しい視点と残酷な視点、どちらの視点の作品だろうか。
私は前者、優しい視点の作品だと思う。
真白のような「幸せから逃げてしまう人」が暗闇から抜け出すにはどうすればいいのか。
それは、特定の人ではなく、社会全体が優しくなることだと思う。
綾野剛演じる安室行舛は(自分の金銭メリットがあることも大きいが)、彼女の願いをかなえた。
夏目ナナ演じる恒吉冴子は、彼女に辛い仕事を辞めろともやった方がいいとも言わない。
皆川七海は、何も求めず彼女に寄り添った。
それぞれに事情があり、考えも色々あるだろう。しかし彼ら彼女らが真白に向ける視線は優しい。
人が暗闇から抜け出すには、支えになっている1人がダメになったらもう救いがないというのではなく、
彼ら彼女らのように不特定多数の優しさが必要なのだと思う。
そんな岩井俊二の優しい視点(あるいは優しくありたいという願望)を感じた。
映画感想:宇宙、女性、黒人のフロンティア=『ドリーム』
SFや本作のような宇宙に関連した映画(本作はScience Non-Fiction)はなぜこうも魅力的なのだろうか。
それは、宇宙が人間にとって、一番未知の領域であるからではないだろうか。
例えば、地球の自然の脅威に関する作品は多く存在する。異常気象の話だったり、未踏の地の冒険潭だったり。ただし、それらは想像することはできる。結末は自然の偉大さや脅威であって、それは自明のこと。全く想像できないことはない。
また、人間の脳に関する話に関する作品も多く存在する。「自分は強い」という妄想が表出する作品(『ファイトクラブ』)や、行き過ぎた欲求・欲望を描いた作品など、切り口はたくさんある。そして、それらも、実感として理解をすることはできないかもしれないが「そういうことを考えたり、そういう状態になってしまう人がいるんだろうな」を想像することはできる。
ただ宇宙は違う。
ほんの数百年前は地球が球体だとすら考えられていなかった。ましてや今の宇宙の存在など、誰も確信を持った形で説明することはできなかっただろう。
これだけ科学が進歩した現代においても、地球外生命体の存在は実証(反証も)されていない。
今ある説と全く違う宇宙の実態が発見される可能性もある。
宇宙とは「究極のフロンティア」であり、それはとても魅力的である。
また本作は「数学者(科学者、エンジニア)の功績」を扱っている点が、その魅力を助長させているのではないだろうか。
猿から進化した人間が、その脳を使うことで宇宙に行って、そして帰ってこれてしまうのだ。叡智とはこのことである。
ここで本作の概要を。
アメリカとソ連が宇宙開発競争を繰り広げていた時代。3人の優秀な黒人女性はNASAで働いていた。
数学者のキャサリンはスペース・タスク・グループへの異動するもトイレは別、コーヒも別と差別的な扱いを受けている。
メアリーは技術部へ異動するもエンジニアになるには白人専用の学校の学位という高いハードルに直面している
リーダー格のドロシーは、管理職への昇進を直訴するも、黒人管理職の前例がないと却下されてしまう。
彼女らは、女性であること、黒人であることにより差別的な扱いを受けるが、ひたむきな努力、諦めない精神により徐々に認められていく。
そんなストーリーだ。
そんな「女性の権利」「黒人の権利」と「宇宙」というフロンティアが相まって、より深い感動を与えてくる作品になっている。
本作の大きなテーマである「女性の権利「黒人の権利」に関しては、1つ劇中のシーンを紹介したい。
メアリーは裁判所に直訴し、大学への入学を許可される。
ただそれは夜間学校への入学であり、夫へ「帰りがかなり遅くなりそう」と告げる場面だ。
夫は静かに彼女の前にひざまずいて「芯を挿入する形式の最新式の鉛筆」を手渡した。
特にものすごくフューチャーされている場面ではないだろうが、個人的にはグッときてしまった。
もし自分がその立場になったとして、静かに鉛筆を渡せるような存在でありたいものだと。
最期に余談を1つ。
グロービス経営大学院が主催している、あすか会議2017内の公園 第8部全体会「テクノベートが変える社会」にて、筑波大学助教授の落合陽一氏がこんなことを語っていた。
「(超ひも理論で有名な日本の物理学者である)大栗博司先生に、”大栗ラボってどんな風に会話してるんですか〜?って聞いてみたんすよ。そしてら、(大栗先生は)”ああ、数式”って(笑)」
www.youtube.com
※該当箇所は38:47付近
天才的な数学者、科学者の集団だったNASA(特にスペース・タスク・ルーム)において、どうしてキャサリンは差別的な扱いを受けてしまったのだろう。
数式で語れなかったのだろうか。
数式で語れるはずの彼らでさえそうなのだ。つくづく、良くも悪くも人間は社会的な生き物なんだなと、大栗先生の話を思い出しながら感じた。
話が少しそれたが、人生に対する活力が増す作品である。
自分は、今後どんなフロンティアを開拓できるのだろうか。それがとても楽しみになった。
映画感想:『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を観て思考の整理手段を考える
人は、自らの頭の中では完結することができないほどの思考があふれると、思考を外に出そうとする。
その最たるものが、喜怒哀楽だ。喜怒哀楽の感情が、自分の中で完結できないほど大きなものであると、それが表情や仕草、態度や言葉になって表出する。
ただそんな単純なものではない「自分でもとらえきれない感情」を抱えた時、またそれが大きなものであるとき、表出の仕方は人それぞれだ。
独り言をブツブツと言って、思考を整理する人もいる。
他人に話をして、整理をする人もいる。
自分の考えや感情を文字にすることで、整理する人もいる。
彼の村上春樹氏もこう語っている。
自分のために書いている、というのはある意味では真実だと思います。
(中略)
そこには「自己治癒」的な意味合いもあったのではないかと思います。なぜならあらゆる創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。つまり自己を相対化することによって、つまり自分の魂を今あるものとは違ったフォームにあてはめていくことによって、生きる過程で避けがたく生じる様々な矛盾なりを解消していく——あるいは消化していく——ということです。
※『職業としての小説家』より
思考のアウトプットという行為は、方法は人それぞれ違いはあれど、思考でがんじがらめの状態から脱するために必要なものなのである。
そして本作はどうだろうか。
本作の主人公デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)はウォールストリートのエリート銀行マンだ。
美しい妻と十分すぎる財力。表面だけ見ると申し分のない存在。
そんな暮らしのとある日、妻と共に仕事に向かう途中で交通事故に遭い、妻を亡くしてしまう。
しかし彼は涙が出ない。悲しいという感情もない。彼は自分の空虚さを実感し、それに戸惑う。
自分はどうしてそんな空虚なのか、それさえもわからない彼は、思考の棚卸しを始める。
多くの人は、冒頭に書いたように「ぶつぶつ言ったり」「文字にしたり」することで棚卸しをする。
しかし彼は違った。
彼の周り、特に妻に関わるものを「分解」「破壊」をし始めたのだ。
表情を見ても、やり場のない感情を解消するために、カタルシスを感じるためにやっているわけではなさそうだ。
だってそれは一過性のものではないから。何日も何日も、ついには仕事を辞めてまで「分解」と「破壊」をし続ける。
冷静に、ネットでブルドーザーまで買って破壊をする。
彼は自分の思考を整理する過程で、現実の破壊が必要だったのだ。
そして彼がわかったこと、それは最期に彼の口から語られる。
「愛はありました。ただ、疎かにしていました。」
たったそれだけ。ただ彼は、分解と破壊をすることで、自分のその真実を理解することができたのである。
人によって違う「思考の整理」の手段。
この映画を観て、改めて自分と近くにいる人がどうなのかを考えてみるのも面白いのではないだろうか。
映画感想:『ティパーテッド』とハリウッドリメイクの本質
ハリウッドリメイクとは、アメリカ以外の国で作られた映画をハリウッドの技術、人材、お金を使ってリメイクすることだ。
リメイクの数は減ることがなく『君の名は』まで実写リメイクされるらしい。
そして本作は、香港ルノアールの傑作『インファナル・アフェア』をリメイクしたものだ。アメリカでの評価は高く、リメイクものとしては最多?のアカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞を受賞している。
本作をリメイクではなく1つの作品として観るのであれば良い出来なのかもしれない。ただ自分は、リメイクものとしてはいまひとつだと思う。
元作品であるインファナル・アフェアの魅力は、「警察とマフィア、それぞれの潜入捜査官が、正体を隠しながら駆け引きをするスリリリングさ」という舞台設定によるものだけではない。ラウ(警察に占有しているマフィア)とヤン(マフィアに潜入している警察官)それぞれの立場と本音の中で揺れる葛藤、そして仏教の世界観。
ヤンは善人だった。長い潜入生活で多少乱暴で薬中気味ではあるものの、彼がマフィアにいるのは「善人であるため」だ。
だからこそ、彼は警官として死ぬことができた。一方のラウは悪人だった。2作目で描かれていたように、1990年代マフィアの大ボスを殺害し、警察に潜入した後も情報を流し続けていた。
彼は「善人になりたい」と願うようになるが、そう簡単にはいかない。
性(さが)から逃れることができず「善人になるために」悪事を重ねていく。
そして本作の最後には、死ぬよりもつらい『終極無間=無限地獄』で苦しむことになる。なんて残酷な「因果応報」。
だがしかし、これは仏教の概念をストーリーに導入したアジア映画ならではのものである。
そこが本シリーズの醍醐味であり、ハリウッド映画にはないものだ。
映画感想:『インファナル・アフェアIII 終極無間』で仏教の残酷さを知る - ならず犬 映画ブログ
自分は『インファナル・アフェア』の感想でこう書いたが、まさに本リメイクでは元作品の仏教の世界観が抜けている。
そしてこうも書いた
一方で、たとえばキリスト経では悪人に対する宗教の態度は「救済」である。ラウのような悪人に対しても、「無限地獄」ほど残酷なストーリーにはしない。その国ごとの宗教観により、映画の脚本や演出も違ってくるのだろう。
『ディパーテッド』においても、アメリカという国における宗教観、人生観を描いてほしかった。舞台設定は同じで国がアメリカに変わっただけの作品に思え、薄い作品に思えてしまった。
まあ、ただそうやって「エンターテインメント」を作ってきたのがハリウッドであり、入り組んだ裏のテーマとか設定とかはいらないと言われたらそうなのだろうが。
1つ言いたいことは『インファナル・アフェア(3部作)』は観てほしい。『ティパーテッド』は、、何も考えずに映画を観たいときや、ジャック・ニコルソンの大ファンで、マフィアとしての彼の迫力を堪能したい(唯一『インファナル・アフェア』に勝っている点だと思う)に是非。