映画感想:『永い言い訳』は必ずしも悪いものではない


映画『永い言い訳』予告編

言い訳の本質とは「現実の否定」だと思う。


小さな話で言うと、学校に遅刻したときの言い訳。
よくアニメやドラマ、小説で描かれる場面だが、学生達は遅刻をしたことに対して言い訳をする。
学生「突然の嵐に巻き込まれてびしょ濡れになったので、着替えに家に戻っていたら遅れてしまいました」
先生「…(今日は快晴だが)」

またよくあるのが、浮気をしている亭主の言い訳。
対外的な言い訳(妻への言い訳)は「あの人は仕事の付き合いで、たまたま一緒になったから飲みにいっただけだ」といったもの。
また自分に対しての言い訳もある。妻とは別の女性に会っていることに対しての罪悪感が全くない人は少ない。「自分はいい夫である」と自分に対して言い聞かせるために、何かを買って帰ったり、家事や子どもの世話を熱心にしたりする。罪滅ぼしとも言う。


共通しているのは、言い訳を通して「現実を否定している」ということだ。

前者は単純に寝坊して遅刻した現実ものを、やむを得ない理由があったため遅刻として非難されるものではないとしている。
後者は浮気をしている現実を、妻に対して違う事実を伝えたり(事実の否定)、自分は良い夫であると考えたり(感情の否定)することで、否定しようとする。

言い訳を通して、自分にとって都合の悪い現実を見ないようにするのである。


ただ、言い訳をし続けると、次第に現実を受け入れるようになることもある。言い訳をするということはその対象としている現実も意識し続けるということであり、次第に現実を直視せざるを得なくなる。


本作のタイトルは『永い言い訳』。
タイトル通り、永い(長い)期間言い訳をし続ける作品である。


作家の衣笠幸夫は、予期せぬバス事故で妻の夏子を亡くしてしまう。しかし、彼はこれっぽっちも泣かない。妻がバスに乗っていた時、幸夫は浮気をしており、夫婦の関係は冷えきっていた。
一方、夏子と共にバスに乗っていたの友人の夫 陽一は、妻を亡くし2人の子どもの世話に困っていた。幸夫は陽一が仕事(トラックの運転手)でいない間、子どもの世話を買って出る。
幸夫は子ども達と一緒に時間を過ごすことで、家族とは何かを知った。そして紆余曲折あり、妻夏子の死を受け入れていく。

人生は、他者だ。ぼくにとって、死んだ君が今の今になって、「あのひと」になりつつあるような気もするよ。遅いかー。

小説『永い言い訳』より


最初は「妻が死んだ。妻にとって自分とはなんだったんだ」という問を直視する勇気がなかったために、幸夫は言い訳を始めた。自分だって家族ごっこできるんだぞ、と。

しかし子ども達と陽一と時間を過ごすことを通して、次第に幸夫は「家族とは、他人とは何たるか」を考え始める。小説が売れてからは自分のことしか考えてこなかった状態から大きな変化だ。

永い言い訳』。西川監督はこのタイトルに、言い訳のポジティブな側面、受容と回復の意味を込めたのだと思う。


ただ、そんな長い時間言い訳をしている時間があるかというと、そういうことでもない。

愛すべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくない。ー(中略)ー 人間死んだら、それまでさ、俺たちはふたりとも、生きていく時間と言うものを舐めていたね。

小説『永い言い訳』より


言い訳する状況にならないにこしたことはないが、仮にそういう状況になったとしても言い訳したっていい。ある程度の時間が必要なのであれば、それでいい。ただ他人が待ってくれるかは別問題だよね。


そんな、西川監督の優しい目線と現実への冷静な目線を感じた。