映画感想:『オデッセイ』を宇宙飛行士になりたい人は見るべきだ


映画「オデッセイ」予告Z


マッド・デイモンは遠く彼方の惑星に取り残されがちである。

インターステラーでは、火星よりはるかに遠い惑星で1人取り残されていた。1人で残された悔しさからか、それとも長年1人だったことで気が狂ってしまったのか、インターステラーでのマッド・デイモンは自分勝手な科学者で、自分1人だけ生き残ろうとした。

本作のマッド・デイモン、宇宙飛行士ワトニーは違う。(事故により)1人で火星に取り残されたが卑屈になることも、脱出したクルーを恨むこともせず、ただがむしゃらに生きようとする。生きようとするエネルギーは、恨みなどのネガティヴなものではなく、「なにくそこの野郎、火星で生きてる俺ってすげー!」というポジティブなものである。

なぜワトニーは生き抜くことができたのか。それを考えることは、宇宙飛行士になる必要条件を考えるに等しいように思える。

まず先述のように彼はポジティブだ。寂しいからなのもあるだろうが、記録用のビデオに軽口を叩き、船長の残していった(センスのない)ディスコミュージックで気分を高めて、厳しい火星生活を進めている。

例えば、ジャガイモを植え「作物を作ったから、俺は火星を植民地にしたことになる。うおー!」と叫ぶ。しかしそこには誰もいない。非常にポジティブな自身に対する鼓舞表現だ。

もう1つの彼が火星で生き抜くことができた理由は「良い意味で、難しいことをあれこれ考えなかった」ことであると思う。

「なぜ自分は、火星でこんなにも苦労して生きなければいけないのか」
「そもそも、帰れる見込みなんてあるのか」
「自分って誰なんだ。意識があるってどんなことなんだ」

そんな答えのないような問いを彼は持たない(持っていたのかもしれないが、表に出ないほど些細なもの)。
彼は「生還」という火星生活における唯一の目的に向かって、淡々と生きるだけだった。
余計なことを考えると、エネルギーは使ってしまうし、どうしてもネガティヴになりがちだ。「そもそもなぜ生きなければいけないのか」という問いを考え始めると、先の見えない火星生活の中ではネガティヴな感情しか生まれてこない。「こんなに苦労して生きる意味なんてない、もういいや」と思ってしまうことだってありえるだろう。「生きる意味」は、宇宙服を着なくてもよくて、明日なにを食べるものがあるかを気にしなくていい地球でじっくり考えればいい。
そんなことをあれこれ考えていると、例え生き残れたとしても、インターステラーのマッド・デイモンになってしまう。

宇宙飛行士であること、生き残る確率が高い宇宙飛行士であるには、「ポジティブであること」と「(無駄なことを)考えないこと」が非常に重要なことではないだろうか。それを本作の主人公ワトニーから学んだ。

最後に、大事なことを忘れていた。

植物のことをよく知っていることも重要だ。食べ物が少ない極限状況では、植物学者が生き残るだろう。食べ物を栽培して増やさなければ、生きて行くことができない。地球で暮らしていると植物学者の存在を意識することはほとんどないのだが、宇宙での存在感は大きい。


果たしてワトニーは生還できるのか、何とか生きている中での事故/危機的な状況もあるが、そもそも絶望的な状況でもある。

そんなサスペンスな状況に冷や汗をかきつつ、しかしワトニーのポジティブな態度に安心感も覚えながら楽しむことができる、アメリカ作品らしいエンターテイメント映画だった。