Snapchatが日本の若者の中で流行ってきている件

先週、10代女子大生(年の離れた妹)に「近頃の大学生のSNS事情」を聞く機会があった。
社会人以上の層とは、少し活用しているSNSが違うようである。


Twitter:使っている人が多い
⇒想像していた通り。時間がある大学生が、ある程度閉じたネットワークの中でのコミュニケーションツールとして活用しているのだろう。Twitter広告の獲得層も長らく若者中心である。

Facebook:使っている人と使っていない人がいる
⇒パブリックな世界とつながっておらず、近しいある程度閉じたネットワーク内で活動をする大学生には、Facebookという公的ツールが必要ないのだろう。特に外に目を向けたり、就活をしたりすることの少ない大学1,2年生は、LINEやTwitterで事足りるということかと思う。

※社会人、特にネット界隈の人間にとっては、プライベートでも仕事においてもFacebookはインフラと化している認識

Instagram:女子大生を中心に使っている人が多い
⇒これも想像していた通り。Facebook広告とInstagram広告を比較しても、Instagram広告の方が若いユーザーの反応が良い傾向がある。

▼Snapchat:使う人が増えてきている
⇒まさかSnapchatの話が出てくるとは思っていなかった。最近大学生の間で流行ってきているらしい。社会人以上の人から「Snapchatを使っている」という話を聞いたことがない。どういうふうに使うかというと「非常にどうでもいいことを友達に伝える」時に使うそうだ。時間のある若者らしい使い方だと思う。新しいものに飛びつきやすい若者の性質を考えると、2016年、さらに利用ユーザーが増えるのではないだろうか。


Snapchatに興味がわいたので調べてみた。

Snapchatとは?

下記2点を特徴としたアメリカで誕生SNSアプリである。
①写真や動画(Snap)を個人かグループに送ることができる
②送られたSnapは、閲覧開始から最大10秒で消えてしまう(見れなくなってしまう)

本国アメリカでの利用率

では本国アメリカでのTeenagerSNS利用状況はどうだろうか。
このデータは、利用率ではなく「最も重要なSNSは何?」という調査の結果だ。

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Survey Finds Teens Prefer Instagram, Twitter, Snapchat for Social Networks - Digits - WSJ

Teenagerの活用するメディアとしてはInstagramが圧倒的に支持されていることがわかる。
一方でFacebook,Twitterは年を経るごとに、若者にとっての重要度が下がってきているようだ。
ではSnapchatはどうかと言うと、2015年春から2015年秋にかけて支持率が一気に高くなっており、Twitterと1%しか変わらないところまできている。次回の調査ではInstagramの次ぐSNSとなっているだろう。

なぜそこまでの支持を得られているのか

若者のコミュニケーションが「くだらない(=アーカイブする必要がない)ことのやり取り」を中心に成り立っているからだろう。そういうやり取りを通してお互いの存在を認識し、時間を共有する、孤独感を紛らわす。くだらないことはたいてい後から見返しても面白くないので、アーカイブされなくても全く問題がない。

他の年代にも流行るのか?

流行らないだろう。「くだらない(=アーカイブする必要がない)こと」によるコミュニケーションは、時間のある若者特有なものである。より機能的なコミュニケーションを求めるようになる大人にとっては、Snapchatのようなツールを使う場面は少ないように思える。

マネタイズ

元々マネタイズを行っていなかったSnapchatだが、昨年からマネタイズの動きを進めている。

①リプレイ:アプリ上で受け取った“消える写真”や動画のリプレイ(二次再生)が有料で可能に(3回分で99セント)
②レンズ:セルフィー(自画撮り)の加工ツール(フィルターや、グラフィックス、サウンド)の提供(99セント~)

昨年から始まったばかりのこのマネタイズ。通期でどのぐらいの収益が得られるか、どんな数字が出てくるかが楽しみである。



昨年後半から日本の大学生の徐々に広がりつつあるSnapchat。今年大きくスケールするのか、それとも一部の人たちに一時的に流行るだけなのか。
同行を注視していきたい。

新・映像の世紀『第四集:世界は秘密と嘘に覆われた』

1/24(日)に放送された冷戦期の回を見た。

www.nhk.or.jp

秘密と嘘、その原点

主題が表すように、冷戦とは、スパイ戦争,情報戦争でもあった。
アメリカ国内にソ連のスパイがおり、逆に、ソ連内にアメリカのスパイがいた。
隣人がスパイかもしれない、自分が監視されているかもしれない、人を信じることができない精神的につらい時代であったと思う。

冷戦後のドイツでシュタージ(東ドイツ秘密警察)の監視ファイルが公開され、妻がスパイだと密告した(妻は6年間投獄)のが夫だったと判明するなど、家族の絆がひきさかれた事実は何とも痛ましい。。

また何がそのような秘密と嘘に覆われた時代を作ったのかというと、同シリーズ『第三集:時代は独裁者を求めた』が思い起こされる。

第一次大戦後に国際連盟は「宣戦布告」を定めた。”紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為(hostilities) [1] を開始する意思を表明する宣言”のことである。

ただ、その後の第二次大戦ではその宣言は破られることとなる。ヒトラー率いるナチスのドイツ軍は、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻するなど、ほとんどの戦線において宣戦布告を行わなかった。

第二地大戦後、国際連合にて宣戦布告なき戦争を実質的に根絶したが、第二次大戦時の記憶新しく、国の間の取り決めの信頼性が落ちていたのかもしれない。

「冷戦」?いや戦いは行われていた

冷戦というワードは物理的な戦争は行われていなかったイメージを誘発するが、実際には多くの代理戦争が行われていた。


▼アメリカが直接介入
朝鮮戦争ベトナム戦争

ソ連が直接介入
アフガニスタン侵攻

▼双方が現地勢力を支援
アンゴラ内戦、ソマリア内戦、カンボジア内戦キプロス紛争

▼一方が現地勢力を支援
亡命キューバ人、ニカラグア、チリ、開発独裁の諸国

▼国家間紛争でそれぞれの国家に支援
中東戦争、印パ戦争、エチオピア・エリトリア国境紛争

▼戦いはなかったのもの、国が分断
東ドイツと西ドイツ


史実として上がるものがこれだけある。決して物理的な戦争が行われていなかったとは言えないだろう。
冷戦というワードはミスリーディングであり、代理戦争期と呼ぶべきだと個人的には思う。

映画感想:『コンタクト』は夢を追いかける話

コンタクト 特別版 [DVD]

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もう数年で公開されてから20年たつSF映画。主演は、ジョディ・フォスターである。
ジョディ・フォスター演じるエリーが地球外生命体の研究(SETIプロジェクト)をしており、
それをめぐり人類と宗教、科学、政治、地球外生命などの複数テーマを扱った作品となっている。

ただ自分は、この映画の一番のテーマは「夢を追い求めること」だと思っている。

可能性を信じ打ち込むこと、希望を持つこと、そしてさらなる可能性に向かうラスト。

映画の中でエリーは、地球外生命体を実証することはできなかった。
ただ「夢を追い求めた結果、大きな可能性を見た」ということが重要なのではないか。

最後の場面、彼女が子たちへの課外授業をしている場面がある。

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子ども「宇宙人はいるの?」
エリー「いい質問ね。どう思う?」
子ども「わからないよ」
エリー「いい答えだわ、科学的よ。大切なのは自分で答えを探すことなのよ」

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夢を持ち、ただ持つだけではなく(時には科学的な態度で)地道に探求をし続ける。

夢を追い求めることと、その希望を表現した映画でした。

映画感想:『スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒』

旧作ファンのための映画

今までのスターウォーズとは大きく関連のない新作を現在の映像技術を使うことで、ハイクオリティの映画を作ることもできただろう。
近年公開の『インタステラー』や『ゼロ・グラビティ』などは、その技術を存分に使い、宇宙の果てしなさや夢、絶望感を表現している。

ただ今回のスターウォーズは、明らかに前作まで(特にep4~6)のファンに向けて作成をされていた。
過去作品のオマージュ、ハン・ソロの活躍、ep4~6から続けて見ても大きく違和感のない映像の(良い意味での)チープさ。
ep4~6を見た後に本作を見ても違和感がない形になっている。

続編の多くは「やっぱり~が一番良かった」となりがちだが「本作は世界的人気作品の22年ごしの続編」という制約の中で、期待を裏切らない形で作られていると思う。
何が求められているかを徹底的に調査の上、作られたのだろう。

スターウォーズと人種

また黒人がスターォーズの中でクローズアップされるのは2役目だろうと思う(ep1~3のメイス・ウィンドゥに続いて)。
アメリカでは色々な声が上がっているのではないかと調べてみると、やはり一部の人たちから「#BoycottStarWarsVII」というハッシュタグで批判運動が起きていたようだ
(最終的にレイシスト批判と大喜利に発展した様子)。

旧3部作が公開されたのが20年前でその流れを踏襲している形だとは思うが、宇宙という国境も人種も関係ない中でほとんど白人しか出ない映像は若干違和感がある。
そもそもアジア人は、中心人物として登場すらしていない…

次回作に期待!

episode8の公開は1.5年後。
ep4~6と同じ流れになりそうな気がしないでもないが、次回からはルークもストーリーに大きく絡んでくるであろうし、新しい展開に期待。

音博2014 (今更ながらくるりまで)

くるりの主催するフェス、京都音楽博覧会
2014年、第8回目の開催に書きかけだったのでその続き。

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椎名林檎

野外での椎名林檎は貴重ではないだろうか。
一体どんな雰囲気で、どんな音楽を聞かせてくれるのだろうかと非常に楽しみだった。

tofubeatsが終わるとイスがいくつか並べられ、おじさんがぞろぞろと出てきた。
その中に1人、見たことのある人がいるかと思えば斎藤ネコ
そして登場の椎名林檎は浴衣を身につけている。

弦楽カルテットにピアノとアコーディオンを加えた、和服の楽団編成である。

1曲目はカルテット調の『いろはにほへと』。
挨拶もそこそこに「ここでゲストシンガーを」という言葉の後に登場したのは、音博常連の石川さゆり

石川さゆりさんをイメージして作った」という『カーネーション』、椎名林檎石川さゆりに提供した『名うての泥棒猫』『最果てが見たい』を歌った。3曲続けての「椎名林檎×石川さゆり」である。

石川さゆりが歌う姿というものを生で初めて見たのだが、正直驚いた。すごすぎる。圧巻の一言。
日本を代表する歌手の1人だから当たり前といえばそれまでだが、そんな言葉では言い表せない歌唱力だった。

3曲を歌い終わり石川さゆりは退場。そこからは歌い手椎名林檎のオンステージである。

『丸の内サディスティック』『歌舞伎町の女王』 『NIPPON』 『ありあまる富』と昔の曲から今年の曲までを歌う。もう何百回と歌ったであろう『丸の内サディスティック』の歌詞を間違えて「あ、間違えた」と言う場面があったり、『歌舞伎町の女王』 間奏部分で口笛を吹いたりと、普段の椎名林檎のLIVEでは少し見られないステージだった。

また椎名林檎といえば夜&室内のイメージだが、昼間&屋外のステージも音博ならではということで、ここでしか見られないものではなかっただろうか。本人はまぶしくて歌いにくそうだったけれど。


くるり

ペンギンカフェの演奏が終わり、いよいよ大トリのくるりの登場。
ドラムが2人いたりと、総勢10人の大くるりでの登場だった。

最初の曲は、音博の直前の9月頭に発売した『THE PIER』の1曲目『2034』。
打ち込みの音から始まり、途中から一斉にバンドの音が入る。

その後、『THE PIER』収録『日本海』『Brose&Butter』『Liberty&Gravity』の3曲を演奏。

ステージの横で、トミ・レブレロが聞いていたが、無国籍な曲である『Liberty&Gravity』を聞いてどう思ったのか気になるところ。


くるり-Liberty&Gravity / Quruli-Liberty&Gravity - YouTube


そこからの5曲は新旧織り交ぜ『TIME』『三日月』『ジュビリー』『グッドモーニング『Loveless』を演奏。

アンコール前の最後の曲は『東京』だ。
『東京』はLIVEではよく演奏される曲だけど、音博では珍しいんだとか。
『東京』は東京に出た時に作られた時の曲だが、少し前、くるりは京都に戻ってきていた。
それが「ファンファンを1回上京させたかったため」また東京に引っ越した。親心ではないけれど、岸田さんと佐藤さんの思いやり。

そしてアンコール1曲目は「rei harakami佐久間正英に捧げたいと思います」と言う言葉から演奏された『There is(always light) 』。


くるり-There is(always light) / Quruli-There is(always light ...

さよなら
別れは つらいものだとして
ありふれたもので 溢れかえる
暮らしを捨てて行くの 何処へ海鳴りのする方
便り出せば 届くそんな時代に 生まれたんだよ 僕らは 大したことはない

さよなら やっぱりね 抜け殻だよ僕ら
あなたが残した 音楽も台詞も全然
普段使い新しい景色にも困難多き時代にも響く


最後はメンバーの3人だけ残って、恒例の『宿はなし』。
今は京都にいるわはないくるり。そして今住んでいる東京からも、LIVEなどで離れることが多い。
そんな「宿のない」彼らの一年に一回帰ってこれる場所が、京都音博なのである。


今回の音博は、昨年までの音博以上に音博らしい音博だった。
アルゼンチンからレバノン、イギリスまで。博覧会という名前にふさわしい顔ぶれだった。
くるりのファンの人も、京都に住んでいるから来てみたという人も、自分の知らない音楽に出会うことができるこの場は貴重で素晴らしいものだと思った。

またトミ・ロブレロがくるりの演奏を熱心に聞いていたと書いたけれど、そんな風に外国の人に、日本の音楽が広がったり、あるいは逆もそうだけれど、もっと相互交流できればいいんじゃないかと素人なりに思った。

2015年音博があったら行くか。もちろん行くだろう。
例えくるり以外のアーティストを知らなくとも、それが音博の醍醐味なのだから、くるりが出ないことがない限り参加は必須である。今年も楽しみだ。

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マック問題に直面しつつ仕事をしている

「魂は細部に宿る」

元々は「God is in the details(神は細部に宿る)」という言葉だったのだが、
20世紀を代表する近代建築の巨匠、ミース・ファン・デル・ローエの言葉だそうだ。

近頃、仕事でこの言葉が思い出されることが多い。

疑心暗鬼

昨年、クライアントに提出するデータに複数回にわたって不備が見つかったことがあった。
大きな意思決定に不備ということではないのだが、間違いは間違いだ。
それからクライアントのデータに対する見方が変わり、直接意思決定や成果につながることのない
細かな点まで追求されるようになった。

コピーライトの年

普段は代理店という立場上、自分で資料を作りクライアントに提出することがほとんどなのだが、
媒体社との打ち合わせで、媒体から資料を受け取る場面もある。
ある日媒体社1年目の社員が営業に来る機会があったので話を聞いていた。
その資料を見て驚いた。ページ数がついていなかったり、Copyrightが昨年のままだったりと、些細な部分ではあるものの、資料の不備が目立つ。資料自体の内容に関係ないのだが、そういったことが、相手への信頼性を大きく損ねる。

マックの話題

近頃マクドナルドでの「ポテトフライへの歯の混入事件」においても考えてみる。
一度「歯がポテトフライに混入していること」が騒動になった後、次々とメディアが取り上げ、
今まではあまり追求されることのなかったことが苦情としてマクドナルドに押し寄せている
(あるいは表に出てきていなかっただけかもしれないが)。
この状態になってしまうと、マックで何かを食べるほとんどの人がその事件を思い出し、
食品の状態に対していつもよりも注意を払うようになる。


疑い出したらきりがない。
「疑心暗鬼」という言葉がぴったりなのだが、普段見えていないものでも、一度その存在を意識し疑い出してしまうと気になってしょうがない。極端な言い方をすれば「あら探し」のようになってしまい生産性のない事態になってしまう。

だからこそ細部まで最新の注意を払うべきだという実感を改めて感じている。
もちろん見逃すこともできる。
ただ互いの信頼関係がしっかりと構築できていない状態では、細部のミスが表面化してしまうと、全体の信頼が落ちてしまう。信頼というのは築きあげるのは難しくかつ時間がかかるが、壊すのは一瞬で簡単だ。

「いやいや、寛容さを持って物事を見なさいよ」という考え方もあるだろう。

ミスの度合いが違うが、下記記事のようなことがあった。


ニッセンがTwitterで誤字→公式アカウントがよってたかって協力して1日で「激怒Tシャツ」商品化決定 - ねとらぼ

良い寛容さ、遊び心の一例だと思う。
ミスに対してそれを笑いで許す寛容さ。
日本には、もっとこういうスタンスが必要なように思える。

ただ、相手の何を信頼していいか何を信頼してはいけないかがわからない状態では、遊び心も何もない。まずはベースとなる信頼関係を築いてこその寛容さなのだと思う。

感想|映画『ゴーンガール』

デヴィッド・フィンチャー監督作品の鑑賞は、『ファイト・クラブ』『ベンジャミン・バトン』に次ぐ3作品目。結末の衝撃度で言ったら『ファイト・クラブ』は今まで見た映画の中でも飛び抜けて高く、『ゴーンガール』にも期待が高まる。

【あらすじ】
結婚5周年の記念日、ミズーリ州の片田舎に暮らすニック・ダン(ベン・アフレック)は、
外出先から家に帰ると妻エイミー(ロザムンド・パイク)が失踪したことを見つける。美男美女のカップル、かつエイミーは有名な作家の娘ということもあり、大規模な操作に発展する。調査が進むにつれて、ダンにに不利な証拠が次々に見つかり、やがて世間からは妻殺害の容疑者扱いされてしまう。

この映画は、見る人が未婚か既婚か、男か女かによって、感想が大きく変わってくる映画である。
「結婚」というキーワードが大きく関わってくるため、既婚の人は大きく衝撃を受けるかと。

未婚の自分としては、リアルな実感をもって怖さを感じることはできなかった。
かと言って、未来の結婚に対して悲観的になることもなかった。幻想を抱きすぎ、とも思う。

ミステリー映画としては面白かった。エンターテインメントとしては、未婚既婚男女に関わらず面白いと思う。半ばで大きなネタばらしをされ、鑑賞者が進むと予測していたであろう展開が大きく崩れる。またラストにも大きな展開が変わり、全体の主題が明らかになっていく。。

単純に語るのであれば、
「ちやほやしてくれないと嫌な妻と、ちょっとクズな夫が結婚したために起きた悲劇的なドラマ」
になるだろうが、他の大きな切り口で語れる映画でもある。

結婚、夫婦という他者。。

「結婚とはこういうことよ」
というエイミーが最後に語る言葉が、全てを物語っている。

人間誰しも「演じる」ことで生きているんだろうけど、それが一生続くのが結婚。
その「自分の態度、言葉、感情についての、演じている割合」が、夫婦の関係性に大きく関わってくるのだろう。

20代の自分が見ても面白かったが、
やっぱり、既婚の30-40代が見るのが一番面白く、かつ怖い映画である。