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映画感想:『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とファイトクラブの共通点


Birdman (2014) Official Trailer #2 (HD) Emma Stone, Edward Norton

過去の栄光(映画『バードマン』出演によるスターダム)に縛られ続け、再起をかけてブロードウェイでの舞台に挑む俳優の話。

副題の「The Unexpected Virtue of Ignorance(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」がこの映画を要約している。無知であるが故、本気すぎるが故に、トラブルばかり起きるが、マイケル・キートン演じるリーガンの強迫観念とも言える再起への渇望が、奇跡を起こす。

その強迫観念が現れているのが、劇中で彼が「超能力(ものをさわらずに動かす)やバードマンの声」だ。それらのシーンを見て『ファイトクラブ』を思い出す。『ファイトクラブ』の主人公「僕」は、強さを渇望している。そして実際に強いのだが、その強さは「僕」の幻想の中の別の人物ブラット・ピット演じるタイラー・ダーデンによって表現される。タイラーは「僕」よりも強く、タイラーに追いつけ追い越せで強くなっていくのが『ファイトクラブ』である。本作も同様である。リーガンは何でもできる自分=超能力を使える自分=演技がうまい自分、が幻想の中で出てきている。宙に浮き、花を動かし、空を飛ぶ。しかし彼は幻想を否定しようとする。それは単純に存在の否定をするのではなく、幻想が実力なのではなく、自分は幻想を超越する強さを持とうという意志という観点での否定だ。

本作に出演しているエドワード・ノートンは、『ファイトクラブ』の「僕」だ。

そんな彼の再起への渇望が奇跡を起こした。
そして彼は幻想=バードマンの存在を全否定し、別れを告げる。リーガンがバードマンを超えた瞬間である。


本作はアカデミー作品賞を受賞している。なぜそこまで評価されたのか。それは、本作のストーリーが映画人の心をつかむものであったからだろうと思う。

著名であればあるほど、過去に賞賛を受けた作品が存在する。そして少なからず、その後に賞賛を受けた作品の幻影に苦しむことがあったはずだ。そんな自らの経験がリーガン、あるいは主演のマイケル・キートンに重なるのだろう。映画人に限らず、栄枯盛衰、人生の波を経験している人であれば、共感する内容だった。

そして手法としての本作は、現代の映画業界への批判的な視点に満ちている。最初と最後を除いてカットのない映像構成になっているが、その手法自体は特段難しいものではない。ではなぜあえてそのような映像手法を採用したのか。

それは「演劇」と関連する。演劇は「編集」をすることができない。カットもない。観客の目の前で演じるために、「隠す」「変える」ことができない。だからこそ、エドワー・ノートン演じるマイクが舞台で欲情してもやり直すこともできないし、彼の出演シーンをカットすることもできない。そんな舞台の「リアルタイム」な緊張感を、ノーカットの映像によって表現しており、昨今の「編集」によってコントロールしてしまう映画をアイロニックな視点で表現している。

※イニャリトゥ監督は、本物を好み撮影する。本作の次に撮影した『レヴェナント』においては、過酷な撮影を断行した。キャストは生肉を食べ、全て自然光での撮影だったという。

ノーカットの緊張感をより拡大させるのが、ドラムだけのBGMである。リーガンの心情を表すかのようなドラムの音が、連続する現実の空気を研ぎ澄ませる。

映画の中の映画のような作品でありつつも、映画への愛と批判に満ちた濃厚な映画だった。

映画感想:『カッコーの巣の上で』は未来への警鐘を鳴らしてくれる

カッコーの巣の上で [DVD]

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ジャック・ニコルソン出演作は鑑賞したことがなく、ずっとシャイニングジャケット画のイメージだった(恐ろしい顔…)。


本作のジャック・ニコルソンことマクマーフィーは、世間的には悪いやつではあるのだが、病院の患者に対する彼は無邪気な少年のようで、くしゃっとしたいい笑顔をする。彼は本作でアカデミー賞主演男優賞を取っている。

刑務所での強制労働がいやなマクマーフィーは、精神病であるふりをし精神病院に入ることになる。
元気であるマクマーフィーは、内気になりがちな精神病患者に彼らが持ちようがない型破りな考え方を提示し、人生の楽しみ方を教える。

一方で、厳格な看護婦長のエリスは徹底的に管理しようとする。そうすることが患者にとってよいこと、幸せであると決めつけ、他の選択肢を与えようとしない。患者も、何か新しく行動をおこしたり、新しい考えを持つことにストレスを持ってしまう傾向があるため、エリスの方針に抵抗をすることはない。

ただ、厳格な看護婦長エリス(演者のマイケル・ベリーマンは、本作でアカデミー主演女優賞をとった)はマクマーフィーのやり方に真っ向から反対し、最終的にマクマーフィーは粛清されてしまう。

本作で救いの持てるところは、粛清されるところで終わらないところだ。
マクマーフィーの意志を告ぐ人物が、精神病院(カッコーの巣)から脱出する。自由の喜びに溢れる希望の持てるラストシーンで締めくくられる。


監督であるミロス・フォアマンの両親は、ナチス政権下で政府に殺されている。ナチス政権とは、ヒトラー独裁政権である。ただし、当時の人々がそうだと思っていたかというと、むしろ良い政権だと思っている人の方が多かったのだろう。公共事業で景気を良くし、第一次世界大戦後の不況を克服する政権だった。

人々の目線を外から内に向けさせ、政府の管理下におく。それに抵抗する、そこからはみだす者には粛清を与える。本作と同様の構造ではないだろうか。

また。2017年現在、同様の構造が生まれつつある。各国で今まで見向きもされなかった極右政党が議席を獲得し、ポピュリストに人気が集まっている。外向きであることが利益につながると提示していた政権が現状打破できないでいるところを「内に向いて、皆で頑張っていこう」と不安な人々に迎合する発言で人気をひきつける。

そんな現代において、本作は「井の中の蛙」の怖さ、その気づきを与えてくれるのではないだろうか。


ただし、単純に新しい視点や考えを取り入れればいいというものでもない。マクマーフィーのしたこととその難しさに触れておきたい、

マクマーフィーのしたことは、一種のショック療法だと言うことができる。自分の世界という1つの価値観に閉じこもっている精神病の患者たちに対して、ベースボールや釣り、酒、女の喜び、病院の住人が知らない人生の喜びを気の赴くままに差し出していく。

住人たちは喜び、彼らと外の世界を区切る壁は徐々に瓦解していった。

しかしそんな中、1人の患者が不幸なことをおこしてしまう。絶頂からのどん底、彼はなぜそうなってしまったのか。

元々持っていた彼の世界にマクマーフィーが持ち込んできた世界が入り込んできたことで、彼はダブルスタンダードになってしまったのだと思う。2つの基準を持てるほど強くはなく、相反する感情を抱えてしまった彼は壊れてしまった。


どうすればよかったのか。

今の世界の状況と同様に答えはない。


もう少し時間をかけて境界を超えていければ違ったのかもしれない。必ずうまくいくとは限らないが、可能性は高くなるように思う。
余裕がないと、どうしても視野が狭くなってしまうものである。余裕がなく不寛容さが広がっていく世界で1人1人ができることは、できるだけ自分の境界を壊そうと試み、他者との対話を通じて相手の境界も少しずつ融解することを試み続けることではないだろうか。


42年前の作品だが、普遍的なテーマを扱っている、これからも観られ続けるであろう作品だった。

映画感想:『お嬢さん』の鑑賞は145分の濃密な時間


『お嬢さん』本編特別映像

なかなかエゲツないエロと狂気。鑑賞前の本作のイメージはそうだった。

ウェールズの作家サラ・ウォーターズの「荊の城」を原作として、作品の舞台をヴィクトリア朝から日本統治時代の朝鮮に変更をしている。
その変更が功を奏し、本作特異なアジアの妖艶な雰囲気を醸成している。

145分という長い上映時間は三部に分かれており、一部は侍女スッキ、二部はお嬢さん秀子、三部は第三者の視点から描かれている。

第一部終了時は「え、こんな話なの?まさかこれで終わりじゃないよね?第二部第三部でとんでもないことが起きるんだよね?」と期待と失望感の間をいったりきたりしていたが、見事に振り切ってくれた。

第二部以降の衝撃は強い。


鑑賞前のイメージ通り、エロティック、かつサイコティックなストーリー。
ただ本作の良いところはそれが目的なのではなく、ストーリー上必要な要素としてとエロティック、サイコティックな要素が盛り込まれているのである。エンターテイメントとしても十分楽しめることができ、クライマックスではカルタシスを感じるほど。

美術と演技も非常に良い。

中心となる部隊である屋敷は、和洋折衷の妖艶な雰囲気を醸し出しており、映画全体の空気感を形作っている。
また女優の演技も素晴らしい。お嬢様の、ピュアさとずる賢さに、少女と大人に揺れ動く、アンビバレンスな色気のある表情。スッキの、騙そうとする詐欺師としての心情から侍女として性の対象としての純粋な好意への心情の移り変わり、それを表す表情。

本作を分類するとしたらなんだろうか。サスペンスか、ラブストーリーか、ポルノではないことは確かだ。
多くの人が感想に書いているようにデートで見るのには適さないが、顔をそむけたくなるがしかし見ていたい、そんな上質なエンターテイメント作品を観たい人におすすめできる作品だった。

映画感想:『ラ・ラ・ランド』は、あえて言うが「がっかり」だった


La La Land (2016 Movie) Official Trailer – 'Dreamers'


鬼気迫る作品である『セッション』がとても良かったので
「セッションはこの作品(ラ・ラ・ランド)を作るために作った」
というほどの本作はどれだけのものだろうと期待値が高い中での鑑賞。


売れない女優であるミアと自分の店を持つ夢を持ちつつくすぶっているセブのアメリカンドリーム、恋物語。要所に挿入される音楽/ダンスに違和感はなく、ミュージカル映画でありつつ、映画のストーリーも楽しむことができる。本的には「陽」の映画なので、目を背けたくなるようなシーンもなく安心して観ることができる。


各方面で絶賛なのもうなずける。ミュージカルシーンは名作のオマージュがちりばめられている。
雨に唄えば、スイート・チャリティ、バンド・ワゴン、パリの恋人、シェルブールの雨傘。。
ミュージカル映画好きであれば、映画好きであれあるほど、楽しむことができる。
チャゼル監督もそうなのだろう。本作の原案は2010年からあったというのだから、
彼が25歳のときに考えられたものだ。若い時分から考案されていたということからも、彼の思い入れが伝わってくる。


しかし、言葉を選ばずに言えば「がっかり」だった。

期待値が高すぎたということがあるのかもしれない。『セッション』の延長を期待してしまっていたということがあるのかもしれない。ただ、少しストレートすぎて、まぶしすぎて、置いてけぼりにされている気分を感じてしまわざるを得なかった。本作を一番楽しみながら鑑賞することができるのは、古くから業界にいる映画業界の人であろうし、彼らが評価をするのもうなずける。だが、自分が映画に求めていることと少しずれていた、良い悪いではなくそういうことだ。


私が映画に求めていることとして「境界を越える擬似体験」が占める割合は大きい。普段暮らしている、仕事をしている、友人、同僚、家族と話を
している中では得られない感覚/考え/価値観を得ることで、映画鑑賞前にはなかった新しい世界の感覚を得ることを求めている。


だから本作が悪いということではない。エンターテインメントとしては珠玉の出来だと思う。鑑賞している時間は幸福な時間だった。


オスカー受賞のチャゼル監督は自作はどんなものなのだろう。『ラ・ラ・ランド』のようなストレートな人間賛歌の作品か、あるいは狂気性を帯びた芸術の世界『セッション』のような作品か。何にせよ鑑賞したいと思っている。

映画感想:『湯を沸かすほどの熱い愛』で号泣

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映画館で号泣してしまった。


宮沢りえ演じるお母ちゃんが、ガンで死んでしまうのだが、死ぬまでに湯を沸かすほどの愛を周りの人に与えてくれる」そんなストーリーはタイトルと予告を見ればわかる。


ただ本作はそんな言葉だけで済ますことができないほど、単純な感動モノの映画ではなかった。

愛情 愛情 愛情

1つに、本当にお母ちゃんの愛が深い。何度泣かされたことか。
1番記憶に残ったシーンは冒頭10分ぐらいのシーン。イジメられて絵の具まみれになった娘にかけた最初の言葉。「安澄、何色が好き?私は赤が好き!」冒頭のこのシーンで感じた。ああ、この映画は泣くと。

涙をこらえる表情

2つ目、湿っぽいシーンがないこと。やっぱりお母ちゃんは死ぬのだけど、家族が悲しい顔をするシーンがない。皆、普通の暮らしをしながら、お母ちゃんをゆっくりと見送る。唯一あるとすれば、死ぬ間際のお母ちゃんの前で、娘の安澄が泣きそうになるシーンがある。ただそこで安澄はこらえる。数秒噛み締めて、その後振り返って優しいたくましい笑顔。号泣した。強くて優しいなあ。そしてそんな安澄を強くしたのはお母ちゃん。母親冥利に尽きるだろう。

実はホラー映画?!

3つ目、やはり最後のシーンだろう。よく考えればホラーなんだが、まあ俗世間の欲にまみれたある意味離れたこの映画の世界だとすっきりしたラストだと思える。監督の好み/こだわりが透けて見えるけれども、いいオチだったのではないかと思う。


お母ちゃんと母親のくだりや、血縁関係がぐちゃぐちゃな点などツッコミポイントはいくつかあったけれども「そんなん、まあいいでしょ!」と思えるような、スカッとしてかつしんみりする良い映画でした。

映画感想:『エクス・マキナ』はタブーを考えさせてくれる

エクス・マキナ (字幕版)

製作費約14億円と低予算ながら、2015年アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した話題作。
低予算だとは思えない独特の雰囲気があり、人里離れた山奥の設定ながら近未来を感じさせる。


トーリーとしては、特段派手な演出(人間vsAIの知能戦など)があるわけでない。
本作で突出しているのは、アリシア・ヴィキャンデル演じるエヴァ(AI搭載人型ロボット)の不気味さだろう。途中までは人間に従順で成長段階の、ある種子どもや小動物に対する愛しさと同じような感情を抱かせるようなキャラクターなのだが、終盤では一変する。
何が一番おそろしいかと言うと「人間の論理が通用しない」ということだと思う。


エヴァ開発者のケイレブはそれをある程度理解していたため、エヴァが外に出れないよう隔離している。
一方で招待者のネイサンはそのことを理解しておらず、エヴァに特殊な感情を抱いてしまった。しかしエヴァは独自の論理で動いているため、ネイサンが「エヴァが考えているであろう」ということに沿った行動をしない。
そしてAIに裏切られるクライマックスに向っていく。


『新・リーダー論 大格差時代のインテリジェンス(著:池上彰佐藤優)』にこのような一節がある。

新・リーダー論大格差時代のインテリジェンス (文春新書)


”社会にはタブーも必要です。…ある種のタブーが存在する社会の方が良い社会なのです。”
”「生命は何にも代えがたい」という戦後日本の生命至上主義は、理屈を超えたものです。いわば一種のタブーです。”

もちろんAIには、こういった「論理を超えたタブー」を自ら導くことはできない。
AIの元となる数式にあてはめることができないものだから。


本作は、そういった「人間の論理やタブーとは違う原則でAIは考え行動する」ということを、
余計な要素を排除したストーリー、静かな映像美で実感させてくれる作品だった。

映画感想:『ルパン三世 カリオストロの城』を大人が見ても楽しめる理由

英語学習のためにhuluに登録したのだが、『ルパン三世 カリオストロの城』が目にとまったのでつい観てしまった。

ルパン三世 カリオストロの城 [Blu-ray]

最初に観たのは、子どもの頃、小学生だっただろうか。昔は放送の多かった地上波の映画放送だった気がする。その時は、ルパンの活躍を見ていて楽しかった。

悪い伯爵と美しいクラリス、そして自由に活躍するルパンとその仲間。子どもにもわかりやすい展開。そしてディズニー映画等で馴染みのある「お姫様を悪役から助け出す」というストーリー。

TVにくぎ付けになって見たものだった。


大人になった今、もう一度この映画を観た。大人になっても楽しめる映画だった。
前述のルパンに登場するキャラクター、展開、スト―リーはもちろん面白い。何度見てもワクワクする。

ただ子どもの頃は気にしなかった点が、この映画を今観ても面白くさせていることを感じた。

それは音楽だった。

ルパン三世』の音楽は、そのテーマをはじめとして大野雄二氏が作曲をしている。氏は、ジャズピアニスト、作曲家、編曲家で、ルパン他、映画やドラマの音楽を数多く手がけている。本作ではその音楽が、良く聞こえた。

まず主題歌の『炎のたからもの』


炎のたからもの LIVE ver. "Lupin the third"

劇中の早い展開とは違い靜かで、一方で力強い曲となっている。

そして個人的に特筆すべきだと思っているのは、ルパンがオートジャイロを奪うシーンで流れる『サンバ・テンペラード』である。


Lupin the 3rd - Samba Temperado [ Live ] - Yuji Ohno

決して明るい曲ではない。リズミカルではありつつも、JAZZ特有の哀愁がただよう曲となっている。この曲ような音楽が使われることで、本作は大人も楽しめる映画になっているのだと思う。

ルパンは、子どもにとっての「ヒーロー」ではない。クラリスの言うように「おじさま」という大人なのである。そう感じさせるのは大野雄二氏の音楽であると考えている。


氏は昨年末、自身のバンド「Yuji Ohno & Lupintic Five」を解散した。LIVE活動を辞めるということではないようだが、一度はLIVEで『サンバ・テンペラード』を聞いてみたいものである。