映画感想:『みかんの丘』で老人達がみかんを作り続ける理由
仮に北朝鮮とアメリカが戦争になり、日本が巻き込まれたとして、自分たちはどうすべきなのだろうか。
慌ててミサイルが飛んでこなそうな過疎地域に避難する?それとも国を守るために自衛隊に入隊する?
色々な選択肢があるだろうが、経験したことがない事態に慌てる人がほとんどだろう。
本作はどうだろうか。
ジョージア(グルジア)のアブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人のイヴォとマルガス。集落のエストニア人はエストニアに避難をしてしまったが、彼らは残ってみかん栽培とその木箱作りを続けている。
彼らは戦争に加担しようとはしない。食料を求める兵士がいれば何も言わずに食料を与え、家の近くで兵士がなくなれば何も言わずに埋葬する。そして、負傷している兵士がいれば、どこの兵士かは関係なく介抱をする。
一見彼らは何も考えてないように思える。来るもの拒まず、淡々と目の前の事象に向き合うだけ。動揺はしない。
ただ、イヴォとマルカスは「集落に残る」という選択をしている。他の皆が避難してしまった状況下、大きな選択だ。
また、介抱している兵士達(アブハジアを支援するチェチェン人アハメドとジョージア兵ニカ)がお互いを「殺す」と言い争えば、イヴォはこう主張する。
『殺す殺すと。そんな権利誰がお前らに与えたんだ』
アハメドは答える。
『この戦争だ』
その言葉に対し、イヴォは言う。
『ばかやろう』
その言い争いの前、乾杯をする際に、イヴォはこうも言った。
『死に乾杯』
『君ら(助けた兵士2人)は死の子ども達だ』
イヴォにとっての死とは、戦争に参加することなのである。
戦争に参加し、普通の生活を放棄すること。それはすなわち人間性を放棄するということだ。国や宗教が違ったら、相手がどんな考えを持っているかは関係なく殺すというのは、人間性の放棄でしかない。
だからイヴォはみかん作りを手伝い続けている。だからイヴォは、それが誰であろうと、お腹をすかせていたり、怪我をしていりしたら、特に何も聞くことはなく助ける。戦争がない時と、できるだけ同じ生活を送ること。それが彼の戦いなのだ。
この映画を観て、『この世界の片隅に』を思い出した。イヴォよりも受け身ではあるものの、主人公すずにとっての第二次世界大戦は「できるだけ変わらない生活送ること」だった。
『これがうちらの戦いですけえ』
彼女はそう言っていた。
戦争になる前、戦争になった後でも、それに反対なのであれば自国の方針に異を唱えるべきだと思うが、どうしようもなくなったときにできることと言えば「可能な限り人間らしい生活を送る」ことなのだと思う。
最後に、日本語版公式サイトの監督メッセージを引用したい。
私の主観的な考えですが、人間にとって一番大切なものが芸術です。この「みかんの丘」には、人間の精神、尊厳にとってとても強い人間的なメッセージが込められています。私は映画、芸術が戦争を止めることが出来るとは決して思ってはいません。しかし、もし戦争を決断し、実行する人たちがこの作品を見て、少しでも立ち止まり、考えてくれるならば、この映画、芸術を作った意義があったと考えています。