映画感想:『プリズナーズ』は、「囚われることの無意味さ」を世に問うている


映画『プリズナーズ』予告編

2017年5月20日の今、公開中の『メッセージ』に関するインタビューで、ポスターにもある宇宙船のデザインは「ばかうけだよ」と発言しているドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。
もちろん誰かの入れ知恵からくる監督のジョークだろうが、彼のお茶目な性格を垣間見ることができる。

そんなドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だが、映画の作風はいたって真面目。
いや、真面目というよりは重たい。

本作の後に公開されたボーダーラインもそうだったが、偽りのない現実を鑑賞者の前に突きつける。
ボーダーラインで突きつけられた現実は「メキシコの麻薬戦争の闇」であり、本作で突きつけられる現実は、タイトルである『プリズナーズ(Prisoners)』が示している「何かに囚われた者(こと)」である。


多くの人が劇中で何かしらに囚われている。迷路から抜け出すことができない。


犯人かと思われたアレックス、ボブ・テイラーは、恐怖心に囚われている。

真の犯人は、自らを裏切った神に対抗することに囚われている。

そしてアナの父親であるケラーは、娘を救い出すことに囚われている。


何かに囚われると、囚われた本人は現実を客観的に見ることができなくなる。
その現実のなんとつらいことか。


アレックス、ボブ・テイラーは、恐怖心から逃れるために自身の心を閉ざしている。

真の犯人の行為のむごたらしさは言わずもがな。

ケラーの行為は、娘を救うことが目的とはいえ常識を逸脱したものだ。


それらを客観的に捉える役割としてのロキ刑事。
観客はロキ刑事の立場になり、彼らの現実を直視する。
そして問うことになるのだろう。「自分がケラーの立場だったらどうする?」


自分がケラーの立場だったらどうするか。
アレックスを尋問することはしないだろう。たとえ彼が事件に何かしら関わっているという確信があったとしても。ではどうするか。できる協力をしつつ、最後は祈るしかない。何だっていい。救われるのであれば。


アナは最終的に救われる。含みのあるエンディングではあったが(うまい)、ケラーも救われるのであろう。「信じていれば、最後には救われる」というのが本作の一つの結論だと言える。

監督は鑑賞者に問うているのではないだろうか。

「信じていれば最後には救われる。そうだとしても、あなたは囚われることを選択しますか?」