映画感想:『オクジャ』と北海道の猟師から考える食肉


この子は、私の大切な家族。『オクジャ/okja』家族編 (30秒)


韓国出身ポン・ジュノ監督が各映画会社に企画を持ち込み、多くは断られ、NETFLIXのみが賛同。予算50億ドル、内容に関してNetflixは口を出さなかったもので、それゆえに自由に作られた作品になっている。

確かにショッキングな内容で、アメリカの映画会社が断ったというのも頷ける。食品業界からの反発は必須であり、利害関係を考えた結果リスクが大きすぎるのだろう。

本作を飾らない一言で言えば「韓国版トトロが実は食用の家畜で、その是非を様々な立場の人の視点を通して見る作品」である。


オクジャが預けられた家の子どもであるミジャから考えればオクジャは「親友」である。物心がないころからずっと一緒であり「家族の一員」であるとも言えるだろう。オクジャが食用に作られた動物であろうがなんであろうが関係がない。

アメリカの大企業未ランド社CEOのルーシーは、オクジャプロジェクトを成功させることは「会社の成功=自己実現」であると考えている。

ルーシーの姉ナンシーはさらに合理的。オクジャを金銭的価値でしか評価しない。お金を払おうがオクジャを手放さなかったルーシーに対して、ナンシーはお金さえ払えばオクジャを渡してもよいという考え方をしている。

動物愛護団体ALFリーダーのジェイもまた、オクジャを彼らの理念を実現するための「手段」としか見ていない。名目上は彼らは「動物愛護団体」なのでオクジャとその家族であるミジャを大事に扱うのだが、何かずれている。彼女らを大事にすることが目的というよりは、彼らの理念を実現するために欠かせないために大事に扱っているという印象を受けるのだ。

そして食肉工場の職員。彼らは、オクジャを「モノ」としか見ていない。それ以上でもそれ以下でもない。

皆それぞれの立場で違う考え方を持ってオクジャに接する。
オクジャとミジャにとっては、たまったものではないだろう。

ただ、彼らの姿勢を全否定するわけではない。
自分も生きる糧として肉を食しているわけで「動物が可哀想だから」と肉を食べることをやめることはできない。

肉をやめることはできない。それならそれで、その裏側にどういう思惑の人がいて、自分たちのところに「肉」が届くのか、それを都度考えるきっかけになるのではなかろうか。

少し前のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で、北海道の猟師の特集をしていた。

久保俊治(2017年4月17日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

彼は動物を後ろから狙わない。また1発でしとめるように頭を狙う。なぜなら無駄に動物を苦しめてしまうから。自分が生きるために、最大限「動物を尊重する姿勢」を持ち、猟を行っていた。

鉄砲を撃って野生の動物を取ることがかわいそうだ、と批判されることもある。しかし、昼食にとれたての鹿肉を食べながら、久保は語った。「そういう人は、どんな肉も食べないのだろうか。今はと殺が分業化され、一番嫌なところは自分がタッチしなくてもいいだけではないか。私は、熊も、鹿も、鴨(かも)を食べる時だって、ちょっと前まで生きてたって意識は常に持っている。」

美味しい肉を作るために遺伝子操作を行うことは、動物を尊重する姿勢を持っている行為だと言えるだろうか。否、言えないだろう。

「いただく」という行為に対しての姿勢を考え直させてくれる。そんな作品だった。

映画感想:『20センチュリー・ウーマン』の各シーンを切り取って写真展を開きたい


20th Century Women | Official Trailer HD | A24


素晴らしい作品だった。今のところ、2017年に観た映画でベスト。


稚拙な感想に聞こえてしまうかもしれないが、とにかく「キラキラ」している。ポスター写真の雰囲気そのままだ。
1970年代という女性の社会的な立場の議論が活発だった時代、今よりも社会進出する女性が少なかった時代、そんな時代の3人の女性が生きることの複雑さとその素晴らしさを教えてくれる。


この映画の良さを3つの点から伝えたい。

キャスト

まずキャスティングが素晴らしい。

15歳ジェイミーを演じるのはルーカス・ジェイド・ズマン。子どもらしさも残りつつ、声がわりして声は大人という少年と青年の狭間をうまく演じている。彼のこの一瞬はこの映画にしか残らないだろう。

ジェイミーの母ドロシーを演じるのはアネット・ベニング。自身も4人の母親であるアネット・ベニング。思春期の息子への接し方への葛藤。また自分の考えをしっかり持った大人の女性。1人の人物の2つの表情がうまい。

子宮頸がんと闘病する写真家アビーを演じるのはグレタ・ガーウィグ。赤髪と闘病による物憂げな表情が印象的。

ジュリーを演じるのはエル・ファニング。少し悪いことも覚えて、ただ漠然とした不安もあり、基本的に無愛想。そんな17歳のジュリーを見事に演じている。

かつてヒッピーコミュニティーに属していた大工ウィリアムを演じるのはビリー・クラダップ。知らなかったのだが、トニー賞も受賞した名優。言葉が少ない役柄だが、元ヒッピー中年の悲哀がじんわり伝わってくる。抑えた演技が魅力的だ。

音楽

1970年代のアメリカではロックが流行っていた。当時流行っていた曲をいくつも聞くことができる。
またそれとは違う、要所で流れる爽やかなBGM。カラフルな水玉が弾けるようなメロディーで、彼女たちの生の一瞬一瞬の輝きを感じることができる。

映像

1つ1つのカットに深いこだわりがあるのがすごく伝わってくる。
劇中のどのシーンを切り取っても、写真展が開ける作品にできるようで。

中でも一番好きなのは、ジェイミーがスケボーを使っているシーンだ。
緩やかな坂を、緩やかにスケボーで下るジェイミー。そして、それを少し離れて車で追う母ドロシー。
そして最後ではその2人が重なり…




大成功するという話でもないし、大失敗するという話でもない。
衝撃的な展開がある話でもない。
劇中で描かれている彼女たちの人生の一部は、一部でしかなくハイライトということでもない。

では、なぜここまで魅力的なのか。
それは監督/脚本家の人を見る視点の優しさと繊細さ、それをうまく表現した映画としての出来が素晴らしいからだろう。



色々な感情を抱えている時にまた観よう。そう決めた。

映画感想:『ウルフ・オブ・ウォールストリート』には「理性」という概念が存在しない


『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 予告編


欲望。多くの動物が生きるために持っているもので、動物である人間ももちろん持っている。
しかし人間が他の動物と違うのは「理性」があるということだ。
「理性」により人間は高度な文明を築きあげ、大きな力を持つようになった。


そして本作の主人公、レオナルド・ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートには「理性」がほとんどない。
金、女、ドラッグ。欲望の象徴として語られるそれらに対しての欲求が異常だ。
金を得るために人を騙し、得た金を女とドラッグ、数々の贅沢品につぎ込む。

ここまで欲にまみれた人物なんかいないだろうと思うと、実話なんだから驚く。ジョーダン・ベルフォート本人に、本作でえがかれる数々のgreedyなエピソードはほとんどが本当にあったことなんだとか。自家用船舶が沈没しかけている時に、盟友?ダニーに何よりも優先して「ドラッグ」を取りに行かせたことなんかも実話なんだから飽きれてしまう。


「ベルフォートは異常だ。普通の人には理性がある。自分とは違う。」

この映画を観て多くの人はこう思うだろう。


ただベルフォートは最初からそうだったわけではない(少なくとも映画の中では)。就職した先に金融マン(ダラス・バイヤーズクラブの撮影で劇ヤセしていたマシューマコノヒー)の言動に引いているし、ダニーが彼にドラッグをプレゼントした時は(最初は)固辞した。

決して根っから欲望深いわけではないし、成人してからも健全な範囲で「稼ぎたい」と考える普通の人だった。

しかし彼には才能があった。「人を騙してお金を稼ぐ」才能が。

金を女とドラッグ、数々の贅沢品が手に入れられるようになると、その快楽にはまっていく。普通はある程度のところで自分の過ちに気づくのだが、彼はお金という「力」があったため抜け出すことができない。そうして長い期間快楽の世界にいたため、その世界から抜け出せなくなってしまう。彼は自分の逮捕された後にも全く反省する様子が見られない。「退屈だ」と言っているだけだ。


人間は欲には勝てない動物なんだろう。

理性の強弱に多少の違いはあるとしても、誰しもが欲に負けることはある。
100%、欲望を我慢することができます。なんて人はいない。


彼も普通の人だった。「きっかけ」と「機会」があっただけ、だ。

もちろん理性で抑制できるに越したことはないが、欲望を抑えるためには「きっかけ」と「機会」を可能な限り減らすことだろう。
自分の頭だけでコントロールしようとすると、どこかで破綻する。

※ちなみに、決して彼を肯定をしているわけではない。

こういう話を聞いたり観たりすると「お金=怖いもの」というなんとなくのイメージを持つ人が多いのだろうけど、
ひふみ投信代表、藤野 英人氏が書いた『投資家が「お金」よりも大切にしていること』を読むといい気がする。きっとそのイメージが払拭されるだろう。

映画感想:『マダム・イン・ニューヨーク』は日曜の夜に鑑賞するのが最適


映画『マダム・イン・ニューヨーク』予告編


これまで5本程度見てきたインド映画。
通して感じることは「ストレート」だということである。


起承転結はあるのだが、本当に真っ当に起承転結。大どんでん返しはない。期待を裏切られないという点で、安心して観ることができる。

また、メッセージもストレート。観た人に「この映画からどういうメッセージを感じましたか?」と聞いたら、9割以上が同じことを答えるだろう。インド映画では、登場人物自身の言葉でメッセージが語られる。否が応でもメッセージが伝わってくる。

そして何と言っても、ダンス。映画の盛り上がるシーンでは、軽快な音楽が流れ、皆が踊り出す。

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そんなインド映画の印象だが、それが映画に限った話かというとそういうことでもない。
実際にインドに行って感じたインドのイメージとも合致する。

旅行者をだまそうとする悪いインド人が多くいるのだが、彼らは込み入っただまし方はしない。

空港からのプリペイドタクシーに乗っているといつの間にか「観光センター」なるものに連れて行かれ、約22万円と約17万円のツアーを提示される。

誰が騙されるというのだ。そんな高いツアーに申し込む人はいるのだろうか。
それがいるらしい。いるからそのような「素直な」騙し方をするインド人が今も存在しているのである。

※参考
【インドに行ってきた】ニューデリー1日目 - ならず犬 映画ブログ

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本作は正にインド映画の王道である。

トーリーは単純。英語のできないマダムが、単身ニューヨークに行き英語に奮闘するという話。
もちろんゲイでチャーミングな先生や振られ続けても全く折れないフランス人など魅力的なキャラクターは登場するものの、大枠のストーリーは単純で大きな驚きはない。

メッセージはとにかくストレート。この映画で伝えたいこと、それを主人公がクライマックスの部分でスピーチで語ってくれる。

そしてダンス。他のインド映画と比較して控え目だが、ご多分にもれず合間に歌とダンスが挿入される。ないと不安になり、出てくると安心する、それがインド映画のダンスである。


インド映画は、期待を裏切らない。Bad endは基本的になく、安心して観ることができる。
子どもを含めた家族で観るもよし、恋人と観るもよし、もちろん1人で観てもよい。
働いている人であれば、日曜日の夜に観るのがいいだろう。


いつか期待を裏切るような作品にも出会ってみたい気もする(ex.Bad endな作品、ダンスなしの作品)安心ブランドのインド映画、次はどんな作品が出てくるのか楽しみである。

映画感想:『ビフォア・ミッドナイト』でロマンを語ることの意味を知る


映画『ビフォア・ミッドナイト』予告編

ビフォアシリーズで1番良かった。

全2作が半ば夢の話なのであれば、本作は現実の話。

ジェシーセリーヌは共に年を取っており40代。2人は夫婦となっており、双子の娘がいる。生活を共にしていると、どうしても話す内容も現実的になる。車の中の会話、喧嘩のネタ。。2人の人生は、夢の中ではなく現実的なものであるということがわかる。そんな現実にストレスを抱えたジェシーセリーヌは、前2作ではなかった大げんかをする。

というのが本作の大筋のストーリーだ。


格段面白い展開というわけではないし、2人の喧嘩の内容も人類の大問題といった大それたものではなくありがちなものだ。


しかしジェシーの発言、行動が素晴らしい。

ジェシーセリーヌの全て受け入れている。彼女は仕事に情熱を傾けていて世に言う主婦ではない。彼女は子どもが生まれた瞬間に途方にくれたらしい。彼女とジェシーは、多くの物事に対する意見が異なる。

また役作りとしてそうしているのだろうが、20代の若かったセリーヌはそこにいない。体型は年相応になっているし、喧嘩をした時の顔はひどく疲れているように見える。

ただ、ジェシーはそんな彼女を全て受け入れると話す。無条件の愛を提供すると。



またジェシーは夢(未来からやってきたという話)を語る。


ジェシーという男の魅力はそこなんだろうなと思う。
1,2作目でもそうだったが、彼は夢を語るのがとてもうまい。所謂ロマンチストだ。
40歳をすぎるとさすがにロマンチックな発言は減るが、3作目で事態を好転させたのは彼のそういう部分だ。


長い時間を共に過ごすとどうしても改まること、ロマンを語ることが照れくさくなったりする。全てが現実的で物事はうまくいくのだろうか。人と人の関係において、全ての意見が一致することはない。些細なすれ違いであっても、やがてそれは大きく、クリティカルな亀裂に発展する。現実的なことばかりに目を向けてしまうと関係性が崩壊してしまう。そうして多くの夫婦関係は冷め、別れを選択することになるのだろう。


ビフォアサンセットの感想で「運命を信じるのは人間だけだ」と書いたが、運命を語るようなロマンチシズムは人間に必要なものなのではないか。


ジェシーセリーヌに言葉をかける。


「真実の愛を求めるならここにある。完璧ではないが、これこそが本物の愛だ」


その気持ちを、たとえ自分が年を取ったとしても忘れてはいけない。

夢を語ることの意味を知った本作は、地味ではあるが大人の名作だと思う。

映画感想:『ビフォアサンセット』の非合理的な2人


Before Sunset - Original Theatrical Trailer

「運命」という概念を持つのは人間だけだろう。


イルカは運命を信じるだろうか。

オスイルカは、大海原でかつて出会ったメスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活を捨ててまで、そのメスイルカと違う海に出ることはないだろう。

イルカは運命という概念を知らない。


ゴリラは運命を信じるだろうか。

メスゴリラは、かつて迷い込んだジャングルで出会ったオスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活、妻ゴリラと子どもを捨ててまで、そのメスゴリラと一緒になることはないだろう。

ゴリラは運命という概念を知らない。


人間はどうだろう。

ご縁、めぐりあわせ、一期一会、運命の人。

そんな言葉があるように、人間は「運命」という概念を持ち、それを信じる。

ひとつひとつの自分と相手のそれまでの人生の選択が2人を引き合わせた。
それを「運命」と呼び、特別なものだと信じるのが人間である。


本作はそんなことを信じる2人による2人のための映画である。


ウィーンの出会いから9年後、半年後に会う約束をしたジェシーセリーヌは9年間会うことはなかった。ジェシーが本を出版し、そのキャンペーンでフランスに来たことから2人は再会。再び2人の時間が進み始める。


ジェシーはどうも結婚しているらしい。子どももいるんだとか。
セリーヌの方は戦場カメラマンが恋人で、環境支援団体で働いている。
それぞれの道を歩んでおり、2人の人生は普通にしていれば交わることはない。


ただ話し込むうちに、2人は本音を語りだす。ジェシーは冷めた結婚生活送っていて、セリーヌジェシーを忘れることができないので長年恋人とは一定の距離を置いている。

なぜ2人はそんな感情を持っているのか。合理的に考えれば、お互いのことを忘れた方がいいに決まってる。
ジェシーは結婚をしているし、2人は住んでいる国も違うし、距離を縮めるのは得策ではない。ゴリラならそうしない。


だが、2人は再び惹かれあう。
9年間の時間を埋めるかのような濃密な2人の話、時間共に縮まる距離感。


なぜ、そう行動するのか。


それは2人が、2人の出会いが「運命」だと思っているからである。

あの日あの時、出会うことのなかった2人が出会い、そして本作の中ではジェシーは、セリーヌの家で/セリーヌが作詞作曲した曲を/セリーヌが歌うのを聞いている。

これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。


生きていれば、誰しもこういった実感を持つことがあると思う。
不思議な感覚。なぜ自分はこんな奇跡のような瞬間に立ち会うのだろう。
ただそれは疑っては、意味を考えてはいけないのだと思う。
そういうもの、めぐり合わせだと思って受け入れること。


ゴリラは運命を知らない(しつこい)。

ただ、地球上で人間だけが運命を知っている。

本作はただのラブストーリーではない。2人だけの小さな世界だが、壮大な人間礼賛の話だと私は思う。

映画感想:『ローガン』はアンチヒーロー映画

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映画の予告動画はとても重要だ。
鑑賞者は、映画館で、TVCMで、Youtubeで、予告動画を見て「その映画を鑑賞すべきか」を判断する。

その点『ローガン』は素晴らしい。

予告に使われている曲は、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)の”Hurt”という曲ある。
映画のテーマ、内容、雰囲気に合ったこれ以上ない選曲だと言える。

少し長いが引用したい。

I hurt myself today(今日、自分を傷つけた)
To see if I still feel(自分が”感じることができるか”を知るために)
I focus on the pain(痛みに集中すると)
The only thing that's real(それだけが真実だから)
The needle tears a hole(針で穴を刺す)
The old familiar sting (古傷が痛む)
Try to kill it all away(全てを殺めようとしても)
But I remember everything(全てを思い出してしまう)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


I wear this crown of thorns(茨の王冠を被り)
Upon my liar's chair(嘘の椅子にこしかけて)
Full of broken thoughts(壊れた思考に支配され)
I cannot repair(戻ることができない)
Beneath the stains of time(汚れた時間の下)
The feelings disappear(感覚は消えてしまった)
You are someone else(あなたは違う人になってしまった)
I am still right here(私はまだ、ここにいる)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


If I could start again(もしやり直すことができるのであれば)
A million miles away(1ミリオンも離れた遠い場所で)
I would keep myself(私は自分を守っていたい)
I would find a way(私は自分の道を見つけたい)

『ローガン』の感想は以上だと言いたくなる。
それだけ、『hurt』から感じる悲哀と『ローガン』のそれは合致する。


そして本編に関して「X-MEN」シリーズのファンであればあるほど、悲しいシーンが続く。

プロフェサーXことチャールズは老いている。
昔からある程度老いた年齢ではあったが、その比較ではない。
時々ローガンのことすらわからないようになり暴走をする。
最強と言われたミュータントであるチャールズが暴走するのは危険極まりない。
体が丈夫であるローガンが看病をしているためギリギリ大事にはなっていないが、厳しい状態だ。
かつての道に迷う多くのミュータントのカリスマがこうなってしまうとは、と哀しくなる。


ローガンも老いている。
不死身の体を持ち、どんなに傷つけられようが、銃で撃たれようがすぐに回復する体だったのが、
老いたこと、アダマンチウムの悪影響により回復しにくくなっている。
回復しきらないため体はボロボロで、動きも鈍い。
死なない猛獣だった時の勢いはどこにいってしまったのか、と哀しくなる。


そしてその哀しさの感情は最後まで解消されない。
チャールズは老いて自分の力をコントロールできないままだし、
ローガンは弱々しいまま、エンドロールを迎える。


そして彼らは「正義の味方」でもない。
チャールズは能力の暴走により多くの関係ない人を失神させるし、ローガンは問答無用で向かってくる敵を殺していく。

R15+にしたことで、戦いのシーンがより生々しくなり、ローガン含めたミュータントの正当性に疑いを持つようになる。
家族や友人がいるであろう、待っているであろう敵側の人間が、ローガンやローラ(ローガンのクローン少女)によってばたばたと殺されていく。


そう、本作は所謂「ヒーロー映画」ではないのである。
「マーベル映画=ヒーロー映画」であり、過去の「X-MEN」シリーズもそうだった。
はっきりとした敵がおり、それに対抗するために「ヒーロー」が立ち上がる。
そしてヒーローはヒールを撃退し、めでたしめでたし。

しかし本作は違う。

ローガンは誰のために戦っているのか、それは自分のためでありチャールズのためだ。
ローガンは、自身の個人的な物語で踊るために戦う。
ローラもそうである。自分が生きるために、自分に向かってくる相手に牙を向いているだけだ。
そこに「信条」など存在しない。

ローガンは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。
チャールズは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。

長年、ミュータント界のため、人間のため(ミュータントとの共存)に戦ってきた彼らが最後に思ったことは、
自分の成し遂げた「大きな物語」ではなく、身近な人との関係、家族の暖かさ、そういった「小さな物語」だった。


大きな物語」は思考停止の起こしかねないという危うさを持っている。
相手がどんな考えを持った人であろうと、信条の違いがあればわかりあえないと思うようなこともあるだろう。それが加速して、現実世界ではイスラムによる暴走が起こっている。


本作は、そんな大きな物語へのアンチテーゼであり、小さな物語の肯定の話ではないだろうか。



冒頭の話に戻ろう。

予告で使われていた”Hurt”だが、実は本編の中では一切使われていない。
しかし、エンドロールでジョニー・キャッシュの違う曲が流れる。

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『The Man Comes Around』という、聖書の「ヨハネの黙示録」「マタイによる福音書」をベースにジョニー・キャッシュが歌詞を書いた曲だ。
内容は「黙示録の到来」「神の裁き」という、厳しい内容である。

劇中、ローガンがローラにこう語るシーンがある。


「人を殺めた過去は変えられない。それを背負うしかないんだ」


その発言を受けて『The Man Comes Around』を解釈すると、ローガンの死=裁きとなる。
しかし、ローガンには「救い」があった。ローラの存在だ。

■ " The virgins are all trimming their wicks "
この部分は「マタイによる福音書25:1-25:13 」 からの抜粋だと思われます。この話の中では10人の処女が出てきて、そのうちの5人は愚かで5人は賢明でした。そして「マタイによる福音書」では「愚かな5人の末路」が書かれていますが、ジョニー・キャッシュの歌詞では「賢明な5人の行い」が記述されています。推測になりますが、恐らくジョニー・キャッシュはこの部分を「救い」若しくは「再生」として書いたのではないかと思いました。

https://old-new-music.blogspot.jp/2013/11/johnny-cash-man-comes-around.html


この「賢明な5人」こそがローラであり、ローガンにとっての救いだったのではないだろうか。この曲をエンディングに採用することで、監督はローガンに救いがあることを示したのだと思う。


ありがとうウルヴァリン、ありがとうローガン(チャールズも)。

X-MENシリーズは、単純なヒーローものではないところが良い。来年は3作品公開されるらしい(デッドプールは見ない)。

この素晴らしいウルヴァリンの余韻の延長線上で、21世紀フォックスには良い作品を期待している。