映画感想:『マダム・イン・ニューヨーク』は日曜の夜に鑑賞するのが最適


映画『マダム・イン・ニューヨーク』予告編


これまで5本程度見てきたインド映画。
通して感じることは「ストレート」だということである。


起承転結はあるのだが、本当に真っ当に起承転結。大どんでん返しはない。期待を裏切られないという点で、安心して観ることができる。

また、メッセージもストレート。観た人に「この映画からどういうメッセージを感じましたか?」と聞いたら、9割以上が同じことを答えるだろう。インド映画では、登場人物自身の言葉でメッセージが語られる。否が応でもメッセージが伝わってくる。

そして何と言っても、ダンス。映画の盛り上がるシーンでは、軽快な音楽が流れ、皆が踊り出す。

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そんなインド映画の印象だが、それが映画に限った話かというとそういうことでもない。
実際にインドに行って感じたインドのイメージとも合致する。

旅行者をだまそうとする悪いインド人が多くいるのだが、彼らは込み入っただまし方はしない。

空港からのプリペイドタクシーに乗っているといつの間にか「観光センター」なるものに連れて行かれ、約22万円と約17万円のツアーを提示される。

誰が騙されるというのだ。そんな高いツアーに申し込む人はいるのだろうか。
それがいるらしい。いるからそのような「素直な」騙し方をするインド人が今も存在しているのである。

※参考
【インドに行ってきた】ニューデリー1日目 - ならず犬 映画ブログ

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本作は正にインド映画の王道である。

トーリーは単純。英語のできないマダムが、単身ニューヨークに行き英語に奮闘するという話。
もちろんゲイでチャーミングな先生や振られ続けても全く折れないフランス人など魅力的なキャラクターは登場するものの、大枠のストーリーは単純で大きな驚きはない。

メッセージはとにかくストレート。この映画で伝えたいこと、それを主人公がクライマックスの部分でスピーチで語ってくれる。

そしてダンス。他のインド映画と比較して控え目だが、ご多分にもれず合間に歌とダンスが挿入される。ないと不安になり、出てくると安心する、それがインド映画のダンスである。


インド映画は、期待を裏切らない。Bad endは基本的になく、安心して観ることができる。
子どもを含めた家族で観るもよし、恋人と観るもよし、もちろん1人で観てもよい。
働いている人であれば、日曜日の夜に観るのがいいだろう。


いつか期待を裏切るような作品にも出会ってみたい気もする(ex.Bad endな作品、ダンスなしの作品)安心ブランドのインド映画、次はどんな作品が出てくるのか楽しみである。

映画感想:『ビフォア・ミッドナイト』でロマンを語ることの意味を知る


映画『ビフォア・ミッドナイト』予告編

ビフォアシリーズで1番良かった。

全2作が半ば夢の話なのであれば、本作は現実の話。

ジェシーセリーヌは共に年を取っており40代。2人は夫婦となっており、双子の娘がいる。生活を共にしていると、どうしても話す内容も現実的になる。車の中の会話、喧嘩のネタ。。2人の人生は、夢の中ではなく現実的なものであるということがわかる。そんな現実にストレスを抱えたジェシーセリーヌは、前2作ではなかった大げんかをする。

というのが本作の大筋のストーリーだ。


格段面白い展開というわけではないし、2人の喧嘩の内容も人類の大問題といった大それたものではなくありがちなものだ。


しかしジェシーの発言、行動が素晴らしい。

ジェシーセリーヌの全て受け入れている。彼女は仕事に情熱を傾けていて世に言う主婦ではない。彼女は子どもが生まれた瞬間に途方にくれたらしい。彼女とジェシーは、多くの物事に対する意見が異なる。

また役作りとしてそうしているのだろうが、20代の若かったセリーヌはそこにいない。体型は年相応になっているし、喧嘩をした時の顔はひどく疲れているように見える。

ただ、ジェシーはそんな彼女を全て受け入れると話す。無条件の愛を提供すると。



またジェシーは夢(未来からやってきたという話)を語る。


ジェシーという男の魅力はそこなんだろうなと思う。
1,2作目でもそうだったが、彼は夢を語るのがとてもうまい。所謂ロマンチストだ。
40歳をすぎるとさすがにロマンチックな発言は減るが、3作目で事態を好転させたのは彼のそういう部分だ。


長い時間を共に過ごすとどうしても改まること、ロマンを語ることが照れくさくなったりする。全てが現実的で物事はうまくいくのだろうか。人と人の関係において、全ての意見が一致することはない。些細なすれ違いであっても、やがてそれは大きく、クリティカルな亀裂に発展する。現実的なことばかりに目を向けてしまうと関係性が崩壊してしまう。そうして多くの夫婦関係は冷め、別れを選択することになるのだろう。


ビフォアサンセットの感想で「運命を信じるのは人間だけだ」と書いたが、運命を語るようなロマンチシズムは人間に必要なものなのではないか。


ジェシーセリーヌに言葉をかける。


「真実の愛を求めるならここにある。完璧ではないが、これこそが本物の愛だ」


その気持ちを、たとえ自分が年を取ったとしても忘れてはいけない。

夢を語ることの意味を知った本作は、地味ではあるが大人の名作だと思う。

映画感想:『ビフォアサンセット』の非合理的な2人


Before Sunset - Original Theatrical Trailer

「運命」という概念を持つのは人間だけだろう。


イルカは運命を信じるだろうか。

オスイルカは、大海原でかつて出会ったメスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活を捨ててまで、そのメスイルカと違う海に出ることはないだろう。

イルカは運命という概念を知らない。


ゴリラは運命を信じるだろうか。

メスゴリラは、かつて迷い込んだジャングルで出会ったオスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活、妻ゴリラと子どもを捨ててまで、そのメスゴリラと一緒になることはないだろう。

ゴリラは運命という概念を知らない。


人間はどうだろう。

ご縁、めぐりあわせ、一期一会、運命の人。

そんな言葉があるように、人間は「運命」という概念を持ち、それを信じる。

ひとつひとつの自分と相手のそれまでの人生の選択が2人を引き合わせた。
それを「運命」と呼び、特別なものだと信じるのが人間である。


本作はそんなことを信じる2人による2人のための映画である。


ウィーンの出会いから9年後、半年後に会う約束をしたジェシーセリーヌは9年間会うことはなかった。ジェシーが本を出版し、そのキャンペーンでフランスに来たことから2人は再会。再び2人の時間が進み始める。


ジェシーはどうも結婚しているらしい。子どももいるんだとか。
セリーヌの方は戦場カメラマンが恋人で、環境支援団体で働いている。
それぞれの道を歩んでおり、2人の人生は普通にしていれば交わることはない。


ただ話し込むうちに、2人は本音を語りだす。ジェシーは冷めた結婚生活送っていて、セリーヌジェシーを忘れることができないので長年恋人とは一定の距離を置いている。

なぜ2人はそんな感情を持っているのか。合理的に考えれば、お互いのことを忘れた方がいいに決まってる。
ジェシーは結婚をしているし、2人は住んでいる国も違うし、距離を縮めるのは得策ではない。ゴリラならそうしない。


だが、2人は再び惹かれあう。
9年間の時間を埋めるかのような濃密な2人の話、時間共に縮まる距離感。


なぜ、そう行動するのか。


それは2人が、2人の出会いが「運命」だと思っているからである。

あの日あの時、出会うことのなかった2人が出会い、そして本作の中ではジェシーは、セリーヌの家で/セリーヌが作詞作曲した曲を/セリーヌが歌うのを聞いている。

これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。


生きていれば、誰しもこういった実感を持つことがあると思う。
不思議な感覚。なぜ自分はこんな奇跡のような瞬間に立ち会うのだろう。
ただそれは疑っては、意味を考えてはいけないのだと思う。
そういうもの、めぐり合わせだと思って受け入れること。


ゴリラは運命を知らない(しつこい)。

ただ、地球上で人間だけが運命を知っている。

本作はただのラブストーリーではない。2人だけの小さな世界だが、壮大な人間礼賛の話だと私は思う。

映画感想:『ローガン』はアンチヒーロー映画

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映画の予告動画はとても重要だ。
鑑賞者は、映画館で、TVCMで、Youtubeで、予告動画を見て「その映画を鑑賞すべきか」を判断する。

その点『ローガン』は素晴らしい。

予告に使われている曲は、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)の”Hurt”という曲ある。
映画のテーマ、内容、雰囲気に合ったこれ以上ない選曲だと言える。

少し長いが引用したい。

I hurt myself today(今日、自分を傷つけた)
To see if I still feel(自分が”感じることができるか”を知るために)
I focus on the pain(痛みに集中すると)
The only thing that's real(それだけが真実だから)
The needle tears a hole(針で穴を刺す)
The old familiar sting (古傷が痛む)
Try to kill it all away(全てを殺めようとしても)
But I remember everything(全てを思い出してしまう)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


I wear this crown of thorns(茨の王冠を被り)
Upon my liar's chair(嘘の椅子にこしかけて)
Full of broken thoughts(壊れた思考に支配され)
I cannot repair(戻ることができない)
Beneath the stains of time(汚れた時間の下)
The feelings disappear(感覚は消えてしまった)
You are someone else(あなたは違う人になってしまった)
I am still right here(私はまだ、ここにいる)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


If I could start again(もしやり直すことができるのであれば)
A million miles away(1ミリオンも離れた遠い場所で)
I would keep myself(私は自分を守っていたい)
I would find a way(私は自分の道を見つけたい)

『ローガン』の感想は以上だと言いたくなる。
それだけ、『hurt』から感じる悲哀と『ローガン』のそれは合致する。


そして本編に関して「X-MEN」シリーズのファンであればあるほど、悲しいシーンが続く。

プロフェサーXことチャールズは老いている。
昔からある程度老いた年齢ではあったが、その比較ではない。
時々ローガンのことすらわからないようになり暴走をする。
最強と言われたミュータントであるチャールズが暴走するのは危険極まりない。
体が丈夫であるローガンが看病をしているためギリギリ大事にはなっていないが、厳しい状態だ。
かつての道に迷う多くのミュータントのカリスマがこうなってしまうとは、と哀しくなる。


ローガンも老いている。
不死身の体を持ち、どんなに傷つけられようが、銃で撃たれようがすぐに回復する体だったのが、
老いたこと、アダマンチウムの悪影響により回復しにくくなっている。
回復しきらないため体はボロボロで、動きも鈍い。
死なない猛獣だった時の勢いはどこにいってしまったのか、と哀しくなる。


そしてその哀しさの感情は最後まで解消されない。
チャールズは老いて自分の力をコントロールできないままだし、
ローガンは弱々しいまま、エンドロールを迎える。


そして彼らは「正義の味方」でもない。
チャールズは能力の暴走により多くの関係ない人を失神させるし、ローガンは問答無用で向かってくる敵を殺していく。

R15+にしたことで、戦いのシーンがより生々しくなり、ローガン含めたミュータントの正当性に疑いを持つようになる。
家族や友人がいるであろう、待っているであろう敵側の人間が、ローガンやローラ(ローガンのクローン少女)によってばたばたと殺されていく。


そう、本作は所謂「ヒーロー映画」ではないのである。
「マーベル映画=ヒーロー映画」であり、過去の「X-MEN」シリーズもそうだった。
はっきりとした敵がおり、それに対抗するために「ヒーロー」が立ち上がる。
そしてヒーローはヒールを撃退し、めでたしめでたし。

しかし本作は違う。

ローガンは誰のために戦っているのか、それは自分のためでありチャールズのためだ。
ローガンは、自身の個人的な物語で踊るために戦う。
ローラもそうである。自分が生きるために、自分に向かってくる相手に牙を向いているだけだ。
そこに「信条」など存在しない。

ローガンは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。
チャールズは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。

長年、ミュータント界のため、人間のため(ミュータントとの共存)に戦ってきた彼らが最後に思ったことは、
自分の成し遂げた「大きな物語」ではなく、身近な人との関係、家族の暖かさ、そういった「小さな物語」だった。


大きな物語」は思考停止の起こしかねないという危うさを持っている。
相手がどんな考えを持った人であろうと、信条の違いがあればわかりあえないと思うようなこともあるだろう。それが加速して、現実世界ではイスラムによる暴走が起こっている。


本作は、そんな大きな物語へのアンチテーゼであり、小さな物語の肯定の話ではないだろうか。



冒頭の話に戻ろう。

予告で使われていた”Hurt”だが、実は本編の中では一切使われていない。
しかし、エンドロールでジョニー・キャッシュの違う曲が流れる。

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『The Man Comes Around』という、聖書の「ヨハネの黙示録」「マタイによる福音書」をベースにジョニー・キャッシュが歌詞を書いた曲だ。
内容は「黙示録の到来」「神の裁き」という、厳しい内容である。

劇中、ローガンがローラにこう語るシーンがある。


「人を殺めた過去は変えられない。それを背負うしかないんだ」


その発言を受けて『The Man Comes Around』を解釈すると、ローガンの死=裁きとなる。
しかし、ローガンには「救い」があった。ローラの存在だ。

■ " The virgins are all trimming their wicks "
この部分は「マタイによる福音書25:1-25:13 」 からの抜粋だと思われます。この話の中では10人の処女が出てきて、そのうちの5人は愚かで5人は賢明でした。そして「マタイによる福音書」では「愚かな5人の末路」が書かれていますが、ジョニー・キャッシュの歌詞では「賢明な5人の行い」が記述されています。推測になりますが、恐らくジョニー・キャッシュはこの部分を「救い」若しくは「再生」として書いたのではないかと思いました。

https://old-new-music.blogspot.jp/2013/11/johnny-cash-man-comes-around.html


この「賢明な5人」こそがローラであり、ローガンにとっての救いだったのではないだろうか。この曲をエンディングに採用することで、監督はローガンに救いがあることを示したのだと思う。


ありがとうウルヴァリン、ありがとうローガン(チャールズも)。

X-MENシリーズは、単純なヒーローものではないところが良い。来年は3作品公開されるらしい(デッドプールは見ない)。

この素晴らしいウルヴァリンの余韻の延長線上で、21世紀フォックスには良い作品を期待している。

映画感想:『灼熱の魂』は悲劇ではない


『灼熱の魂』予告

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はなんて映画を撮るんだ。

観終わった後にはそう感じざるを得ない強烈な作品。


カナダに住む双子ジャンヌ、シモンの母ナワルが亡くなり、公証人が遺言を2人に伝える。
そこに隠された謎(父と兄の行方)、すなわち母の人生を追う、というのが大筋のストーリーだ。



本作は、性別、自身に子どもがいるかどうか、年齢、信条、国、様々な各人のアイデンティティによって、
考えることが異なってくる作品のように思える。

例えば本作は、ナワルの人生がレバノン内戦に沿って描かれているが、
宗教的対立の空虚さ、残酷さは、自身が信じる宗教があるか、それを取り巻く環境によって感じることが変わってくるだろう。

また本作は「母」の話である。
ジャンヌとシモンの生誕に隠された秘密、そこにある母の感情を知ったとき、
心が大きく揺さぶられるのは母である人ではないだろうか。


ナワルの人生だけを見ると悲劇だろう。
内戦に巻き込まれ数十年、静かな幸福が訪れたところでの「辛すぎる現実」。
彼女の思考が停止してしまうのも頷ける。それほど「残酷な現実」なのである。

しかし単純に悲劇で終わらしまってはいけない。
原題は『Incendies(フランス語で火災)』。
彼女が燃やした炎とは何だったのだろうか。


それは「愛情」ではないだろうか。


離れ離れになった息子に再会するも、「残酷な運命」により真っ直ぐな感情を向けることができない。
ただし、彼女は最後に受け入れる。感情を手紙にしたためて、3人の子どもの生を肯定する。
彼女の人生とその肯定(=愛情)が、彼女の燃やした炎だったのではないだろうか。


「現実の肯定」という観点では、現在公開中の『メッセージ』と共通するテーマ性を持ち、
一見重たかったり悲劇調であったりするものの、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品は、根底にはポジティブなエネルギーを持っている。

映画感想:『メッセージ』は未来の話ではない


映画『メッセージ』予告


本作『メッセージ(原題:Arrival)』はSF映画である。


しかしSF映画(ここでは宇宙映画)と一言で言っても、様々なジャンルが存在する。

1つは純粋に「宇宙」をテーマにした作品である。
例えば『2001年宇宙の旅』や『ゼロ・グラビティ』をそれに分類することができる。宇宙そのものを描いたもので、『2001年宇宙の旅』はまさに宇宙そのものを描いた作品、『ゼロ・グラビティ』に関しては宇宙空間を舞台にしたサスペンス作品になっている。

次に「宇宙人」や「異星」を舞台にした冒険活劇がある。『スターウォーズ』や『アバター』、広くいえば『エイリアン』や『E.T.』なんかもそこに加えることができるだろう。主人公(多くは地球人)と同調することで、決して地球では見ることができない宇宙人や異星の姿を楽しむことができる。

そしてより現実に近しい話として「ファーストコンタクト」の話がある。ジョディ・フォスターと、後に『インターステラー』で主演をつとめるマシュー・マコノヒーが出演する『コンタクト』や『未知との遭遇』がそうだ。ファーストコンタクトの恐怖感もありつつ、『コンタクト』は未来・希望を語る非常にポジティブな作品となっている。

「ラブストーリー」である『パッセンジャー』や、エンタメ色が強い『オデッセイ(原題:The Martian)』など、他にも数多くのSF作品が製作されてきた。


本作はどうだろう。

トーリーとしてはこうだ。

ある日突然、世界中のあちらこちらに12の「ばかうけ型」宇宙船が現れる。なぜ宇宙船が現れたのか、破壊/侵略か、それともその他の理由か、全くわからない危機的な状況。そんな中、アメリカでは言語学者のルイーズが現場に召集され「彼ら」とのコミュニケーションを命じられる。果たして「彼ら」の目的とは?人類、ルイーズはどうなってしまうのか?!

まさにテーマとしては「ファーストコンタクト」。
しかし本作は、『コンタクト』で語られる未来・希望を押しだした作品ではない。

では何が描かれている作品なのか。



それは「現実の肯定」である。



何をどう肯定するのか、ネタバレになってしまうのでここでは書かない。

面構えは「未来」の映画なのだが、作品の方向性は「現実」である。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はその見せ方がとてもうまい。
彼の作品の特徴は「余計な装飾はしない現実感」であると考えている。
プリズナーズ』『ボーダーライン』では静かな暴力を最低限の音響とともに描いた。

本作も余計な演出がない。
地球外生命体の姿、動きは決して派手なものではなく、行動も最後まで静かなものだ。

盛り立てる、というよりは観客を盛り下げて現実感を作り出す低い音の音響で、本作はアカデミー音響編集賞を受賞している。


だから「SF映画を観てワクワクしたい!」という人には決しておすすめできない作品だ。
それを期待して観ると、裏切られた気持ちになるだろう。

逆に「SF映画を観て、静かに自分の人生について考えたい」という人にはおすすめできる作品である。
(そんな感情をピンポイントで抱く人がいるかはわからないが)

もちろん、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品好きな人は、期待は裏切られることはないだろう。


ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督らしい、一味違ったSF映画を楽しむことができた。

映画感想:『インファナル・アフェアIII 終極無間』で仏教の残酷さを知る

インファナル・アフェア 3部作スペシャルパック (初回生産限定) [DVD]

インファナル・アフェアIII 終極無間』は『インファナル・アフェア 無間序曲』に次ぐ「インファナル・アフェア」、三部作の三作品目。
シリーズの完結編である。

インファナル・アフェア』の前後数ヶ月を中心に話は展開する。
ヤンは組織の中でどういう立場だったのか。
ラウはヤンが死んだ後、善人になることができたのか。
インファナル・アフェア』の世界を完結させる前日譚、後日譚が本作である。

インファナル・アフェア」シリーズの一番の主題は「仏教」であり、
作品の冒頭に仏教の経典が語られる他、三部作全てを通して浮かび上がってくる概念は「因果応報」である。

「因果応報」とは、良い行いをした者には良い結果が、悪い行いをした者には悪い結果が起こる、という概念だ。ヤンとラウはまさに「因果応報」を体現している。

ヤンは善人だった。長い潜入生活で多少乱暴で薬中気味ではあるものの、彼がマフィアにいるのは「善人であるため」だ。
だからこそ、彼は警官として死ぬことができた。

一方のラウは悪人だった。2作目で描かれていたように、1990年代マフィアの大ボスを殺害し、警察に潜入した後も情報を流し続けていた。
彼は「善人になりたい」と願うようになるが、そう簡単にはいかない。
性(さが)から逃れることができず「善人になるために」悪事を重ねていく。
そして本作の最後には、死ぬよりもつらい『終極無間=無限地獄』で苦しむことになる。

なんて残酷な「因果応報」。

だがしかし、これは仏教の概念をストーリーに導入したアジア映画ならではのものである。
そこが本シリーズの醍醐味であり、ハリウッド映画にはないものだ。

仏教の教えは時に残酷であり、諦念を求められる。


一方で、たとえばキリスト経では悪人に対する宗教の態度は「救済」である。
ラウのような悪人に対しても、「無限地獄」ほど残酷なストーリーにはしない。
その国ごとの宗教観により、映画の脚本や演出も違ってくるのだろう。


人間の罪深さとその報われなさ描いた本作は、まさに香港ノワール
アジア映画の面白さを見直した。