映画感想:『ビフォアサンセット』の非合理的な2人


Before Sunset - Original Theatrical Trailer

「運命」という概念を持つのは人間だけだろう。


イルカは運命を信じるだろうか。

オスイルカは、大海原でかつて出会ったメスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活を捨ててまで、そのメスイルカと違う海に出ることはないだろう。

イルカは運命という概念を知らない。


ゴリラは運命を信じるだろうか。

メスゴリラは、かつて迷い込んだジャングルで出会ったオスイルカを覚えているだろうか。
たとえ覚えていたとしても、今ある自分の生活、妻ゴリラと子どもを捨ててまで、そのメスゴリラと一緒になることはないだろう。

ゴリラは運命という概念を知らない。


人間はどうだろう。

ご縁、めぐりあわせ、一期一会、運命の人。

そんな言葉があるように、人間は「運命」という概念を持ち、それを信じる。

ひとつひとつの自分と相手のそれまでの人生の選択が2人を引き合わせた。
それを「運命」と呼び、特別なものだと信じるのが人間である。


本作はそんなことを信じる2人による2人のための映画である。


ウィーンの出会いから9年後、半年後に会う約束をしたジェシーセリーヌは9年間会うことはなかった。ジェシーが本を出版し、そのキャンペーンでフランスに来たことから2人は再会。再び2人の時間が進み始める。


ジェシーはどうも結婚しているらしい。子どももいるんだとか。
セリーヌの方は戦場カメラマンが恋人で、環境支援団体で働いている。
それぞれの道を歩んでおり、2人の人生は普通にしていれば交わることはない。


ただ話し込むうちに、2人は本音を語りだす。ジェシーは冷めた結婚生活送っていて、セリーヌジェシーを忘れることができないので長年恋人とは一定の距離を置いている。

なぜ2人はそんな感情を持っているのか。合理的に考えれば、お互いのことを忘れた方がいいに決まってる。
ジェシーは結婚をしているし、2人は住んでいる国も違うし、距離を縮めるのは得策ではない。ゴリラならそうしない。


だが、2人は再び惹かれあう。
9年間の時間を埋めるかのような濃密な2人の話、時間共に縮まる距離感。


なぜ、そう行動するのか。


それは2人が、2人の出会いが「運命」だと思っているからである。

あの日あの時、出会うことのなかった2人が出会い、そして本作の中ではジェシーは、セリーヌの家で/セリーヌが作詞作曲した曲を/セリーヌが歌うのを聞いている。

これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。


生きていれば、誰しもこういった実感を持つことがあると思う。
不思議な感覚。なぜ自分はこんな奇跡のような瞬間に立ち会うのだろう。
ただそれは疑っては、意味を考えてはいけないのだと思う。
そういうもの、めぐり合わせだと思って受け入れること。


ゴリラは運命を知らない(しつこい)。

ただ、地球上で人間だけが運命を知っている。

本作はただのラブストーリーではない。2人だけの小さな世界だが、壮大な人間礼賛の話だと私は思う。

映画感想:『ローガン』はアンチヒーロー映画

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映画の予告動画はとても重要だ。
鑑賞者は、映画館で、TVCMで、Youtubeで、予告動画を見て「その映画を鑑賞すべきか」を判断する。

その点『ローガン』は素晴らしい。

予告に使われている曲は、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)の”Hurt”という曲ある。
映画のテーマ、内容、雰囲気に合ったこれ以上ない選曲だと言える。

少し長いが引用したい。

I hurt myself today(今日、自分を傷つけた)
To see if I still feel(自分が”感じることができるか”を知るために)
I focus on the pain(痛みに集中すると)
The only thing that's real(それだけが真実だから)
The needle tears a hole(針で穴を刺す)
The old familiar sting (古傷が痛む)
Try to kill it all away(全てを殺めようとしても)
But I remember everything(全てを思い出してしまう)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


I wear this crown of thorns(茨の王冠を被り)
Upon my liar's chair(嘘の椅子にこしかけて)
Full of broken thoughts(壊れた思考に支配され)
I cannot repair(戻ることができない)
Beneath the stains of time(汚れた時間の下)
The feelings disappear(感覚は消えてしまった)
You are someone else(あなたは違う人になってしまった)
I am still right here(私はまだ、ここにいる)


What have I become (自分はどうなってしまったのだろうか)
My sweetest friend(私の親しい友よ)
Everyone I know goes away(皆、どこかにいってしまった)
In the end(最後には)
And you could have it all(全て持っていってくれ)
My empire of dirt(泥からできた脆い帝国を)
I will let you down(私はあなたをがっかりさせるだろう)
I will make you hurt(私はあなたを傷つけるだろう)


If I could start again(もしやり直すことができるのであれば)
A million miles away(1ミリオンも離れた遠い場所で)
I would keep myself(私は自分を守っていたい)
I would find a way(私は自分の道を見つけたい)

『ローガン』の感想は以上だと言いたくなる。
それだけ、『hurt』から感じる悲哀と『ローガン』のそれは合致する。


そして本編に関して「X-MEN」シリーズのファンであればあるほど、悲しいシーンが続く。

プロフェサーXことチャールズは老いている。
昔からある程度老いた年齢ではあったが、その比較ではない。
時々ローガンのことすらわからないようになり暴走をする。
最強と言われたミュータントであるチャールズが暴走するのは危険極まりない。
体が丈夫であるローガンが看病をしているためギリギリ大事にはなっていないが、厳しい状態だ。
かつての道に迷う多くのミュータントのカリスマがこうなってしまうとは、と哀しくなる。


ローガンも老いている。
不死身の体を持ち、どんなに傷つけられようが、銃で撃たれようがすぐに回復する体だったのが、
老いたこと、アダマンチウムの悪影響により回復しにくくなっている。
回復しきらないため体はボロボロで、動きも鈍い。
死なない猛獣だった時の勢いはどこにいってしまったのか、と哀しくなる。


そしてその哀しさの感情は最後まで解消されない。
チャールズは老いて自分の力をコントロールできないままだし、
ローガンは弱々しいまま、エンドロールを迎える。


そして彼らは「正義の味方」でもない。
チャールズは能力の暴走により多くの関係ない人を失神させるし、ローガンは問答無用で向かってくる敵を殺していく。

R15+にしたことで、戦いのシーンがより生々しくなり、ローガン含めたミュータントの正当性に疑いを持つようになる。
家族や友人がいるであろう、待っているであろう敵側の人間が、ローガンやローラ(ローガンのクローン少女)によってばたばたと殺されていく。


そう、本作は所謂「ヒーロー映画」ではないのである。
「マーベル映画=ヒーロー映画」であり、過去の「X-MEN」シリーズもそうだった。
はっきりとした敵がおり、それに対抗するために「ヒーロー」が立ち上がる。
そしてヒーローはヒールを撃退し、めでたしめでたし。

しかし本作は違う。

ローガンは誰のために戦っているのか、それは自分のためでありチャールズのためだ。
ローガンは、自身の個人的な物語で踊るために戦う。
ローラもそうである。自分が生きるために、自分に向かってくる相手に牙を向いているだけだ。
そこに「信条」など存在しない。

ローガンは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。
チャールズは何を最後に思ったのか、それは「家族の暖かさ」である。

長年、ミュータント界のため、人間のため(ミュータントとの共存)に戦ってきた彼らが最後に思ったことは、
自分の成し遂げた「大きな物語」ではなく、身近な人との関係、家族の暖かさ、そういった「小さな物語」だった。


大きな物語」は思考停止の起こしかねないという危うさを持っている。
相手がどんな考えを持った人であろうと、信条の違いがあればわかりあえないと思うようなこともあるだろう。それが加速して、現実世界ではイスラムによる暴走が起こっている。


本作は、そんな大きな物語へのアンチテーゼであり、小さな物語の肯定の話ではないだろうか。



冒頭の話に戻ろう。

予告で使われていた”Hurt”だが、実は本編の中では一切使われていない。
しかし、エンドロールでジョニー・キャッシュの違う曲が流れる。

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『The Man Comes Around』という、聖書の「ヨハネの黙示録」「マタイによる福音書」をベースにジョニー・キャッシュが歌詞を書いた曲だ。
内容は「黙示録の到来」「神の裁き」という、厳しい内容である。

劇中、ローガンがローラにこう語るシーンがある。


「人を殺めた過去は変えられない。それを背負うしかないんだ」


その発言を受けて『The Man Comes Around』を解釈すると、ローガンの死=裁きとなる。
しかし、ローガンには「救い」があった。ローラの存在だ。

■ " The virgins are all trimming their wicks "
この部分は「マタイによる福音書25:1-25:13 」 からの抜粋だと思われます。この話の中では10人の処女が出てきて、そのうちの5人は愚かで5人は賢明でした。そして「マタイによる福音書」では「愚かな5人の末路」が書かれていますが、ジョニー・キャッシュの歌詞では「賢明な5人の行い」が記述されています。推測になりますが、恐らくジョニー・キャッシュはこの部分を「救い」若しくは「再生」として書いたのではないかと思いました。

https://old-new-music.blogspot.jp/2013/11/johnny-cash-man-comes-around.html


この「賢明な5人」こそがローラであり、ローガンにとっての救いだったのではないだろうか。この曲をエンディングに採用することで、監督はローガンに救いがあることを示したのだと思う。


ありがとうウルヴァリン、ありがとうローガン(チャールズも)。

X-MENシリーズは、単純なヒーローものではないところが良い。来年は3作品公開されるらしい(デッドプールは見ない)。

この素晴らしいウルヴァリンの余韻の延長線上で、21世紀フォックスには良い作品を期待している。

映画感想:『灼熱の魂』は悲劇ではない


『灼熱の魂』予告

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はなんて映画を撮るんだ。

観終わった後にはそう感じざるを得ない強烈な作品。


カナダに住む双子ジャンヌ、シモンの母ナワルが亡くなり、公証人が遺言を2人に伝える。
そこに隠された謎(父と兄の行方)、すなわち母の人生を追う、というのが大筋のストーリーだ。



本作は、性別、自身に子どもがいるかどうか、年齢、信条、国、様々な各人のアイデンティティによって、
考えることが異なってくる作品のように思える。

例えば本作は、ナワルの人生がレバノン内戦に沿って描かれているが、
宗教的対立の空虚さ、残酷さは、自身が信じる宗教があるか、それを取り巻く環境によって感じることが変わってくるだろう。

また本作は「母」の話である。
ジャンヌとシモンの生誕に隠された秘密、そこにある母の感情を知ったとき、
心が大きく揺さぶられるのは母である人ではないだろうか。


ナワルの人生だけを見ると悲劇だろう。
内戦に巻き込まれ数十年、静かな幸福が訪れたところでの「辛すぎる現実」。
彼女の思考が停止してしまうのも頷ける。それほど「残酷な現実」なのである。

しかし単純に悲劇で終わらしまってはいけない。
原題は『Incendies(フランス語で火災)』。
彼女が燃やした炎とは何だったのだろうか。


それは「愛情」ではないだろうか。


離れ離れになった息子に再会するも、「残酷な運命」により真っ直ぐな感情を向けることができない。
ただし、彼女は最後に受け入れる。感情を手紙にしたためて、3人の子どもの生を肯定する。
彼女の人生とその肯定(=愛情)が、彼女の燃やした炎だったのではないだろうか。


「現実の肯定」という観点では、現在公開中の『メッセージ』と共通するテーマ性を持ち、
一見重たかったり悲劇調であったりするものの、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品は、根底にはポジティブなエネルギーを持っている。

映画感想:『メッセージ』は未来の話ではない


映画『メッセージ』予告


本作『メッセージ(原題:Arrival)』はSF映画である。


しかしSF映画(ここでは宇宙映画)と一言で言っても、様々なジャンルが存在する。

1つは純粋に「宇宙」をテーマにした作品である。
例えば『2001年宇宙の旅』や『ゼロ・グラビティ』をそれに分類することができる。宇宙そのものを描いたもので、『2001年宇宙の旅』はまさに宇宙そのものを描いた作品、『ゼロ・グラビティ』に関しては宇宙空間を舞台にしたサスペンス作品になっている。

次に「宇宙人」や「異星」を舞台にした冒険活劇がある。『スターウォーズ』や『アバター』、広くいえば『エイリアン』や『E.T.』なんかもそこに加えることができるだろう。主人公(多くは地球人)と同調することで、決して地球では見ることができない宇宙人や異星の姿を楽しむことができる。

そしてより現実に近しい話として「ファーストコンタクト」の話がある。ジョディ・フォスターと、後に『インターステラー』で主演をつとめるマシュー・マコノヒーが出演する『コンタクト』や『未知との遭遇』がそうだ。ファーストコンタクトの恐怖感もありつつ、『コンタクト』は未来・希望を語る非常にポジティブな作品となっている。

「ラブストーリー」である『パッセンジャー』や、エンタメ色が強い『オデッセイ(原題:The Martian)』など、他にも数多くのSF作品が製作されてきた。


本作はどうだろう。

トーリーとしてはこうだ。

ある日突然、世界中のあちらこちらに12の「ばかうけ型」宇宙船が現れる。なぜ宇宙船が現れたのか、破壊/侵略か、それともその他の理由か、全くわからない危機的な状況。そんな中、アメリカでは言語学者のルイーズが現場に召集され「彼ら」とのコミュニケーションを命じられる。果たして「彼ら」の目的とは?人類、ルイーズはどうなってしまうのか?!

まさにテーマとしては「ファーストコンタクト」。
しかし本作は、『コンタクト』で語られる未来・希望を押しだした作品ではない。

では何が描かれている作品なのか。



それは「現実の肯定」である。



何をどう肯定するのか、ネタバレになってしまうのでここでは書かない。

面構えは「未来」の映画なのだが、作品の方向性は「現実」である。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はその見せ方がとてもうまい。
彼の作品の特徴は「余計な装飾はしない現実感」であると考えている。
プリズナーズ』『ボーダーライン』では静かな暴力を最低限の音響とともに描いた。

本作も余計な演出がない。
地球外生命体の姿、動きは決して派手なものではなく、行動も最後まで静かなものだ。

盛り立てる、というよりは観客を盛り下げて現実感を作り出す低い音の音響で、本作はアカデミー音響編集賞を受賞している。


だから「SF映画を観てワクワクしたい!」という人には決しておすすめできない作品だ。
それを期待して観ると、裏切られた気持ちになるだろう。

逆に「SF映画を観て、静かに自分の人生について考えたい」という人にはおすすめできる作品である。
(そんな感情をピンポイントで抱く人がいるかはわからないが)

もちろん、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品好きな人は、期待は裏切られることはないだろう。


ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督らしい、一味違ったSF映画を楽しむことができた。

映画感想:『インファナル・アフェアIII 終極無間』で仏教の残酷さを知る

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インファナル・アフェアIII 終極無間』は『インファナル・アフェア 無間序曲』に次ぐ「インファナル・アフェア」、三部作の三作品目。
シリーズの完結編である。

インファナル・アフェア』の前後数ヶ月を中心に話は展開する。
ヤンは組織の中でどういう立場だったのか。
ラウはヤンが死んだ後、善人になることができたのか。
インファナル・アフェア』の世界を完結させる前日譚、後日譚が本作である。

インファナル・アフェア」シリーズの一番の主題は「仏教」であり、
作品の冒頭に仏教の経典が語られる他、三部作全てを通して浮かび上がってくる概念は「因果応報」である。

「因果応報」とは、良い行いをした者には良い結果が、悪い行いをした者には悪い結果が起こる、という概念だ。ヤンとラウはまさに「因果応報」を体現している。

ヤンは善人だった。長い潜入生活で多少乱暴で薬中気味ではあるものの、彼がマフィアにいるのは「善人であるため」だ。
だからこそ、彼は警官として死ぬことができた。

一方のラウは悪人だった。2作目で描かれていたように、1990年代マフィアの大ボスを殺害し、警察に潜入した後も情報を流し続けていた。
彼は「善人になりたい」と願うようになるが、そう簡単にはいかない。
性(さが)から逃れることができず「善人になるために」悪事を重ねていく。
そして本作の最後には、死ぬよりもつらい『終極無間=無限地獄』で苦しむことになる。

なんて残酷な「因果応報」。

だがしかし、これは仏教の概念をストーリーに導入したアジア映画ならではのものである。
そこが本シリーズの醍醐味であり、ハリウッド映画にはないものだ。

仏教の教えは時に残酷であり、諦念を求められる。


一方で、たとえばキリスト経では悪人に対する宗教の態度は「救済」である。
ラウのような悪人に対しても、「無限地獄」ほど残酷なストーリーにはしない。
その国ごとの宗教観により、映画の脚本や演出も違ってくるのだろう。


人間の罪深さとその報われなさ描いた本作は、まさに香港ノワール
アジア映画の面白さを見直した。

映画感想:『プリズナーズ』は、「囚われることの無意味さ」を世に問うている


映画『プリズナーズ』予告編

2017年5月20日の今、公開中の『メッセージ』に関するインタビューで、ポスターにもある宇宙船のデザインは「ばかうけだよ」と発言しているドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。
もちろん誰かの入れ知恵からくる監督のジョークだろうが、彼のお茶目な性格を垣間見ることができる。

そんなドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だが、映画の作風はいたって真面目。
いや、真面目というよりは重たい。

本作の後に公開されたボーダーラインもそうだったが、偽りのない現実を鑑賞者の前に突きつける。
ボーダーラインで突きつけられた現実は「メキシコの麻薬戦争の闇」であり、本作で突きつけられる現実は、タイトルである『プリズナーズ(Prisoners)』が示している「何かに囚われた者(こと)」である。


多くの人が劇中で何かしらに囚われている。迷路から抜け出すことができない。


犯人かと思われたアレックス、ボブ・テイラーは、恐怖心に囚われている。

真の犯人は、自らを裏切った神に対抗することに囚われている。

そしてアナの父親であるケラーは、娘を救い出すことに囚われている。


何かに囚われると、囚われた本人は現実を客観的に見ることができなくなる。
その現実のなんとつらいことか。


アレックス、ボブ・テイラーは、恐怖心から逃れるために自身の心を閉ざしている。

真の犯人の行為のむごたらしさは言わずもがな。

ケラーの行為は、娘を救うことが目的とはいえ常識を逸脱したものだ。


それらを客観的に捉える役割としてのロキ刑事。
観客はロキ刑事の立場になり、彼らの現実を直視する。
そして問うことになるのだろう。「自分がケラーの立場だったらどうする?」


自分がケラーの立場だったらどうするか。
アレックスを尋問することはしないだろう。たとえ彼が事件に何かしら関わっているという確信があったとしても。ではどうするか。できる協力をしつつ、最後は祈るしかない。何だっていい。救われるのであれば。


アナは最終的に救われる。含みのあるエンディングではあったが(うまい)、ケラーも救われるのであろう。「信じていれば、最後には救われる」というのが本作の一つの結論だと言える。

監督は鑑賞者に問うているのではないだろうか。

「信じていれば最後には救われる。そうだとしても、あなたは囚われることを選択しますか?」

映画感想:『インファナル・アフェア 無間序曲』は香港返還の抒情詩

インファナルアフェア ? 無間序曲 (字幕版)

インファナル・アフェア 無間序曲』は「インファナル・アフェア」、三部作の二作品目。
ゴッドファーザーと同じく、間の二作品目は、過去の話が中心になっている。

時代は一作品目である『インファナルアフェア』の2000年代初頭から遡り、香港返還(1997年)前の時代とその当日が描かれている。

ラウとヤン、またウォン警部(一作目では警視)とマフィアのボス サムが一作目の彼らになるまでのストーリーだ。
当時の香港マフィアの大ボスクワンの息子であり後継者のハウと他マフィアとの覇権争いを軸に話は展開する。

舞台は返還前の香港。当時の香港はイギリスから中国に返還される不安と期待が入り混じった混乱の様相だったことだろう。
例えば香港警察で使われている言語は英語であり、国民を守ることが職務である警察官が本当の母国語を職務では使えないという矛盾がそこには存在する。本作の中では描かれていないが、上層部にイギリス人もいたのだろう。

香港返還に対する香港住民の想いとは、一言で言うと「混乱」だろう。何しろ99年間イギリス(一時期日本)の領地だったのだ。例え返還後に一国二制度になるのだとしても、住民は混乱をする。自らの重要なアイデンティティの1つである国家が変わるのだ。当たり前だろう。

香港返還に対する人々の想いを「インファナル・アフェア」の登場人物の想いと通して知ることができる。
彼らもまた、混乱し、目標を見失っているのである。

ラウは自らのボスの妻に入れ込み、ボスではなく、彼女のために行動するようになる。彼女が去った後には、表向きはサムのために警察にい続けるのだが、そんな彼にサムへの忠誠心はないだろう。

ヤンは自らの血筋から逃れて善人になりたかったが、その血筋ゆえに警察学校退学となった。ウォン警部に潜入捜査官として拾われるものの、警官でありつつ、そうあるために、異母兄弟マフィア組織に在籍するという矛盾した立場だ。

ウォン警部は、職務への一途さがゆえに信義とは反する一線を超えてしまう。一線を越えたがために、大きな犠牲も払うことになり自身を失っていく。

ンガイ・ハウは、父と同等の存在になろうとするものの、強権的になってしまい敵を多く作ってしまう。まわりが敵だけになり、家族にすがる姿は、彼の目指すべき方向は父親だったのだろうかと疑問を持つ場面だ。


そんな香港住民と重なる彼らと対照的なのはマフィアのサムだ。
お調子者に見えて策略家であり、自らの目標である「香港における権力奪取」に向けて、あわてず慎重な行動をしている。唯一冷静だったサムだけが自らの目標を達成することができた。

そんな彼らはそれぞれの「香港返還」を迎える。
ラウは新たなマリーを見つけ、ヤンはさらなる混沌の中へ、ウォン警部は志し新たに自らの意志を固め、サムは香港返還の花火と共にマリーへの想いとは決別し、権力の階段を登りつめていく。


香港の歴史と善悪へのアンビバレンスな感情が絡む重厚な作品となっている。
インファナル・アフェア」のメインストーリーでないものの、三部作をより大きな物語たらしめる名続編であったと言える。